太田威重 写真展『町猫浪々』拝見 


2006年11月18日



11月3日の猫通信でご案内した、太田威重氏の写真展に出かけた。
前々日に読み終えた徳大寺有恒氏の『眼が見えない猫のきもち』や、行く道々ページを繰っていたエッセイ集『猫のはなし』が心の襞に食い込んでいて、冷たいコンクリートを一歩一歩踏みしめるような足取りで向った。
出迎えてくれたのは、案内状にあったショーウィンドウの中の3匹の猫だった。まずは黒猫に挨拶。黒白猫が眺めているのは、ここの風景ではないと知りつつも、思わずその視線を辿る。柔らかな色合の光を放つスポットが並んでいた。
ブラックのフレームに収められた数点の作品に続いて、壁面2面に一つながりのパネルが掛けてある。25枚の写真をコラージュしたものである。挟み込まれた赤いチューリップと青い塀がモノクロの作品に色彩を添える。
隣室には、ロール状の印画紙に焼き付けた一枚のコラージュ写真が一つの壁面を占める。続く壁面には、大きなモノクロの背景に、数点のカラーパネルが掛けられている。そのすべての猫たちと視線がぶつかる。そのように配置されているわけだ。

一風変わったディスプレイで、という太田氏の言葉が思い起こされて、なるほどと、深くうなずく。

タイトルも、解説もいっさい省き、作品とディスプレイそのもので、見る者に伝えるメッセージは深い。経済的観点と合理性を追求し、変わり続けることを至上の命のように、変貌し続ける東京の中で、ようやく見つけた住処を追われながら生きる猫たち。彼らの生を支える自然を次々に奪う人間の所業に、懺悔の思いで差し出される人の手によって命をつなぐ彼らだが、その目は人を攻撃する訳でもなく、自身を哀れむでもなく、まっすぐにこちらを見据える。
轟音を引いてジェット機が頭上を飛ぼうが、何基ものクレーンが軋みながら首を回そうが、彼らは一向に介する気配もなく、自分の空間と時間を生きている。
それは、日が沈み、また昇るのと同じように、自明の真のように思われる。
人が着々と築き上げるコンクリートの連なりは、機能美はあっても温感を感じることはできない。だが、視界の片隅に彼らを見つけると、そのコンクリートは彼らの体温をそのまま伝えるかのように、ぬくもりを持つ。半球形のブロックは、まるでストゥーパのように、荘重に見えてくる。
人との接点を持ちながら永々と変わらぬ種の尊厳を持ち続ける彼らの存在は、ひた走る東京に流されていく私たちがすがる、最後の藁のように思う。


私が選んだ一枚!
子猫がしゃぶった後も生々しい乳房を天に向け、豪快なあくびをする母猫の図だ。汚れのない歯から推して、まだ1歳にも届かないだろう。少子化を止めようと、あたふたと施策を講じる我々を、高笑いをしているようにも見える。



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