古代エジプト人は、聖獣として崇拝していた猫の国外持ち出しを厳禁していた。これに目をつけたのが抜け目のないフェニキアの商人で、猫を密輸して暴利をむさぼることを企てた。こうして猫たちは小アジアを経てヨーロッパへと持込まれたのである。もともとヨーロッパに飼猫がいなかったことは、『イソップ物語』や『聖書』をはじめ、ギリシア、ローマの古典に猫の記述が全くないことからも伺い知れる。 ヨーロッパに渡った猫は、ネズミなどの害獣を退治する貴重な動物として丁重に扱われた。猫を殺した者は、その大きさに応じた量の小麦を代償として差し出さなければならなかったという。猫は、次第にヨーロッパの様々な文化の中に浸透していき、猫にまつわる多くの迷信や習慣が生まれた。中には、建物を堅固にするには猫を壁に埋込むとよい、といった猫にとっては迷惑千万な迷信もあった。その他、豊作祈願に子猫が生き埋めにされたり、疫病や災難を被った人の救済のために火あぶりにもされた。これは猫を忌むべき者とするからではなく、猫に対する高い評価ゆえのことだった。 ヨーロッパの都市が発展し、土地が開拓されるにつれ、増加するのがネズミ。人間の行くところどこにでもネズミが随伴した。ネズミは食物を食い荒らし、飢饉もたらし、伝染病をまき散らした。紀元前の疫病にはじまり、14世紀中頃の黒死病、17世紀のペストと、対ネズミの闘いにおいて、猫は人間の頼もしい助っ人として闘ってきた。にも関わらず、15世紀終わり頃から猫の受難の時代が始まるのである。 古代エジプトで猫が神聖視されたまさにその理由──刻々形を変える瞳と静電気を放つ毛を持ち、歩くときも音を立てず、夜は目を光らせて闇の中を行く──それを『魔性』、『魔女』と結び付けるのは容易なことだったろう。確かに猫は早くから民間信仰の中で『魔術』と結び付いていたし、黒魔術や異端的な風習に猫を用いることも多かった。15世紀、法王イノセントヲ世は、カソリック教会の権威と利益を守るために、邪教や偶像崇拝を排除せんと『魔女狩り』を押し進めた。『魔女』の随伴者、『悪魔』のシンボルとされた猫も、そのとばっちりを受けることとなる。猫ばかりか、それを飼う人、かくまう人までもが、水責め、火あぶりに処せられたのである。宗教的、政治的儀式として始まった『魔女狩り』『猫狩り』は、次第に社会的行事となり、果ては娯楽にまでされて延々18世紀まで続いた。 この受難の時代に終止符を打たせたのは、ドブネズミだった。東方から侵入したドブネズミは、またたく間に土着のクマネズミを駆逐。この機動力溢れる侵入者と相対し人間を助けたのは忌み嫌われたはずの猫だった。変わり身の早い人間は、ネズミ捕りの上手な猫を高値で売買するようになった。さらに19世紀に入り、パスツールが多くの病気の原因が細菌であり、不潔さが直接病気と結びつくことを証明してからというもの、これまで平気で触れていた犬や馬を敬遠し、清潔を旨とする猫だけに門戸を開くようになった。こうして猫はネズミの退治役ばかりでなく、共に家で暮らし、その美しい姿を愛でる対象としての地位を与えられるようになったのである。 【参考文献】 『動物シンボル事典』 『日本大百科全書』 『猫の歴史と奇話』 『ネコのこころがわかる本』 |