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5. 東洋のイエネコ

日本のイエネコは、インドから中国を経て日本に移入されたが、そのインドにいつ、どのような経路で伝わったのか、定かではない。経路については、ナイル流域からシリア、ペルシア経由というルートの他、紅海からアラビア海に出る商船航路も考えうる。もっともこれは、インドのイエネコも古代エジプトのイエネコが移り住んだものという前提での話だが、一方で東洋のイエネコの起源を別系統とする説も亜流ながらあるようだ。東洋のイエネコにもっとも近縁の種をジャングルキャットとする説で、このジャングルキャットは中近東から東南アジアにかけて棲息し、イエネコの多くいる地域と重なるという。


【ジャングルキャット】
生物大図鑑 第6巻
発行:世界文化社

インドでいつ頃からイエネコを飼うようになったのかを知るには、猫に関する記録─文献や絵画等─を遡ることになるが、猫に関する記述がはじめて見られるのは、『マヌの法典』(200BC〜200AD)で、それより古い宗教文学ヴェーダにも、多くの鳥獣が描かれている釈迦(466〜386年BC)の涅槃図にも、猫の姿はない。(猫の描かれている涅槃図は、後年日本で描かれたものだ。)

『マヌの法典』にはいくつかの章にまたがって猫についての規定が記されているという。しかし、残念ながら猫は忌むべき存在として不浄視されていたようだ。曰く「猫のごとく振舞う者には、口頭の挨拶すら敬意を払うべからず」、「水すら与うべからず」。「猫のごとく振舞う」と名指しされた猫は「貪欲にして美徳を誇示し、偽善にして世人を欺き、悪事に余念なく、人を誹謗する」のだそうだ。

インドの『猫』の語源は『鼠』+『食う』の合成語だとされているから、もともと猫は鼠を捕る益獣として移入されたのだと考えられる。特に白猫は夜間、鼠を追い払うので、月の象徴として尊ばれていたという。それがいつの間にか、悪徳の権化と化しているのは、前章で述べたヨーロッパとそっくりだ。もっとも猫の権威失墜はインドの方が遥かに早かったわけだが…。

ちなみにイスラム教の創始者、マホメット(571〜632AD)は無類の猫好きだったそうで、イスラム教の普及している地域では、猫は優遇されていたようである。

猫の評価の乱高下は、ヨーロッパ、インドにとどまらず、中国でも見受けられる。インドの仏教が中国に伝わった際に、仏典を鼠害から守るために一緒に移入された猫は、養蚕の役に立つこともあり、多いに珍重された。五穀豊穣の不思議な力があるさえ思われていた。ところが、随の時代(589〜617AD)には、早くも猫鬼という妖怪が登場する。人を殺傷したり、財物を奪ったりする悪者だ。これはもちろん架空の物語だが、光りに反応してスリット状に変化する目や、静電気を帯びて青光りする毛など、実際の観察からも猫に魔性を見るようになり、さまざまな言い伝えや「金花猫」などの怪奇談を生むことになった。金花猫は老猫が化けたもので、月光を吸って怪異をなし、美男、美女に化けるという。この他、猫は老いると人間のことばを話し、歌を歌う、猫は妓女の生まれ変わり(日本でも芸者を隠語で猫と呼ぶ)などの伝承がある。そして黒猫を殺せば祟る、瀕死の病人や死人に猫を近付けるな、といった禁忌も生まれた。

このように猫を魔性のものと見る傍ら、鼠を捕る益獣として猫を考察したものも相当数あった。益獣としての猫の理想型は、1)鼠をよく捕り、2)鶏を捕らず、3)寒がらない ということだったようだ。この条件にあう猫の見分け方を記した文献も『相猫経』をはじめとして数々生まれ、やがて猫の研究家、黄漢によって猫に関する文献の集大成である『猫苑』上、下巻(1852年)が編纂された。上巻には、種類、形相、毛色、霊異の4編が、下巻には名物、故事、品藻の3編が収められている。これによると中国の猫の理想型は、顔が丸く、体は短く、後肢が高く、尾は長く、叫ぶような声を出す猫だそうだ。毛色は純色が良く、中でも純黄が一番、続いて純白、純黒の順となる。生まれは冬がよく、食べ物はキスが最上とされていた。

中国の占星術においては、猫はなかなかの評価を得ている。猫は、頭の良さ、平静さ、そして涙の象徴とされ、平穏で安全な生活、女の憂愁、男の賢明などを表すという。猫愛好家としては、ようやく、ふむふむと頷けるというものだ。


【参考文献】
『猫の歴史と奇話』
1992年10月1日初版発行
著者:平岩米吉
発行:築地書館株式会社

『動物シンボル事典』
1989年10月25日初版発行
著者:ジャン=ポール・クレベール
発行:大修館書店

『世界大百科事典』
1988年4月28日初版発行
発行:平凡社

『世界歴史大事典』
1985年4月25日 発行
発行:株式会社教育出版センター

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