くさび(H.19.8.16) ロッキーママが突然逝ってしまった。 7月の豪雨や雷雨、梅雨明け以来の猛暑、折りあるごとにロッキーママを抱いては、屋内に連れてきてはいた。 この一週間の夏休み、家族揃って老舗のランチ巡りに連日出掛けていた。その都度、ロッキーママをどうするか思案したものの、10時ともなれば、小屋の中にいる筈もなく、空の小屋を一瞥して出掛けた。 一昨日は、昼食後、マーケットでロッキーママのご飯や猫砂を車のトランク一杯に買って帰った。10?の猫砂を何袋も物置に運ぶのは一仕事だ。クーラーに当たって一心地ついた後、庭の水まきを始めると、水の嫌いなロッキーママは、慌てて塀に駆け上がり、隣家に逃避行。だが、ホースを片付け終えた頃には、よしずの上に戻っていた。 いつものように裸の体にロッキーママを抱き、お風呂へ。シャワーの音を聞くと、ひび割れたような声で2、3度ないたが、これは毎度のこと。シャンプーバーを塗って爪の間からお尻まで、きれいに洗いあげた。その間はシャワーが止まっているから、大人しいものだったが、再びシャワーを出すと、またまた悲鳴をあげる。はいはい、もうすぐ終わりだから、と顔を洗って、何とか終了。タオルでざっと水気を取り、おばあちゃんを呼んだ。 そんな言葉を交わした時だった。突然、ロッキーママが喘ぎ呼吸を始めた。 いつかは必ずやってくるロッキーママとの別れが、脳裏に浮かぶようになったのは2ヶ月ほど前からだろうか。辛くない別れなどあろう筈もないが、ロッキーママとの別れは全く異質の、身にズシンと堪えるものだろうと思った。だが、その別れの光景をちらとも思い描くことはなかった。外に暮らす猫のこと、死期を悟れば、身を隠してしまうのが常だが、そんなことさえ思いもよらなかった。ただ、毎晩帰宅したとき、ロッキーママと語り会う時間がわずかずつ長くなっていた。ロッキーママを抱いて、星を見たり、庭のそこここに咲く花を眺めたり……。小屋を奇麗に洗い、新品のベッドをしつらえたのは、つい2週間前だ。 こんなに直ぐの、ましてこんな形の最期など、だれが想像しただろうか。一番嫌いな水を浴びたのが最期だなんて。お風呂で体温が上がってしまったのか、水に対する恐怖が引き金か……お風呂にさえ入れなければ……。今、胸に深く突き刺さるものは、後悔や懺悔ではない。 ロッキーママの死顔は、決して優しくなかった。 7年前、ロッキーママがまだ会社のビルの裏手の、人の入れない塀の陰で子育てをしていたとき、ロッキーママは、仔猫をくわえてきては、差し出した私の両手の中に置いてくれた。私に仔猫たちを託してくれた。あの頃は、猫の心と呼応できる柔らかさを持っていたのかも知れない。我が家が常に10数匹の大所帯になって、たくさんの猫と接し、たくさんの猫の書物を読んで知識も詰め込み、いつの間にか、いっぱしの猫の達人を気取っているうちに、私は猫たちと水平線の上で話すことが出来なくなっていったのだろう。私がしたり顔で接しているのは、私が思い描いた猫であって、真の猫の姿はどんどんと遠のき、すっかり見えなくなっているのだろう。 ロッキーママとの別れを漠然と思うようになったこの数ヶ月、ロッキーママは私に精一杯訴えていたのだ。それを真正面から受け止めなかったのは、私の鈍化とご都合主義のせいだ。この炎天下、せめて夏休みの日中くらい、ロッキーママを膝に、クーラーの入った居間で過ごすことはできたはず。どこかでそれを願いながら、家族の夏のお楽しみを壊すことが怖かった。家族に自分の気持ちを話すこともないままに、後ろ髪引かれながら外出し、ひとたび家を離れればすべて忘れ、美味しい食事を堪能するばかりだった。 そう言えば、最近、ロッキーママはいつもの返事をしなくなっていた。話しかければ、「ふぅぅん、あぁぅん」と絶妙な間合いで返事をしていたのに。 亡くなる前日の月曜日、久しぶりにおばあちゃんがゴミ出しに行った。 そう言えば、そう言えば、そう言えば……… ロッキーママの写真を探す。何千枚にもなった猫たちの写真の中で、ロッキーママの写真の数は少ない。いくらマイハウスを持っていようと、家の外で暮らすということは、そういうことなのだ、と改めて思う。 ロッキーママが亡くなってからの暑さは、私には何倍にも感じられる。その暑さに喘ぐことが償いになるのなら…… てっちゃん、ロッキー、なっちゃん、マロン、ファイト、チビタ……これまでは天国での再会までの短い別れを別れた。 ロッキーママが打ち込んだくさびを溶かすのは、これからの私の生きようなのだが、くさびをそっくり溶かすことができるほどの生き方ができたとしても、私が天上になど上れるはずもない。ただ、ロッキーママに「よしよし、たまには会いにいこうかな」と思ってもらえるような生き方をして、ロッキーママの訪問を待つことしかできないだろう。でも、もし、ロッキーママが会いに来てくれて、私が引き止めたら、ロッキーママは、いつまでも傍に居てくれるような気がする。 ロッキーママの遺骨は、今日、家に戻る。 |