愚痴 (H.16.9.19)

 事務所の外猫の避妊と去勢にメドが立ち、ほっと一息ついた折も折、私宛にこの事務所のオーナーより電話が入った。猫のことだろう、とすぐにピンと来た。案の定、猫たちにエサをやるのは止めてほしい、という内容だった。今日開かれた理事会で、私宛にそう伝えてくれ、と言われたという。

「何か猫たちが御迷惑になるようなことをしましたでしょうか?」
「糞もするでしょう」
「私は掃除もしていますが、敷地の中に、糞があったためしはありませんが」
「非常階段を上がってきたことがありましたよ。もう十年以上前のことですけど」
「その猫は、きっとひもじかったのでしょうね。猫は、エサをやるやらないに関わらず、自分のテリトリーを持っているんです。エサをあげなくても今の場所から移動はしないと思いますが」
「猫はいてもいいんですよ。エサをやらなければ」
「エサをあげなければ、鳴くし、人の後を追うし、かえって迷惑がかかると思いますが」
「このビルは、ペットの飼育はできないと管理規約で決められているんです。一ケ所認めると、飼いたい人は大勢いるんですから、収拾がつかなくなります」
「ここに居ついた猫の避妊と去勢は済ませました。○○さんにも、猫たちの避妊・去勢は、本来なら管理組合で取り組まなければならないのに、申し訳ないとおっしゃっていただいたのですが…」
「○○さんも理事さんですから、今日の会議に出席していましたけど」
「私が、ご説明する機会はないのでしょうか?」
「まあ、理事会でそういう話が出たということを、お伝えしておきますから」

どうにも噛み合わない会話だった。噛み合わないのも無理はない。オーナー自身も本音と建て前が違うのだ。だからこそ、「お伝えしておきますから」の後に「後はご随に」という含みを持たせてくれているのだ。
でも、私はたまらなく悔しかった。

「あの猫たちを守りたかったら、隠れるようにご飯をあげて、食べ終えるまで待って、お皿を残さないことだね。猫の名前を呼んでもいけない。それしか、あの猫たちを守る方法はないよ」
お父さんが、ため息まじりにそう呟いた。
ご飯皿を置いてきたのは、私のいない時にしか食べにこられないチョコのためだった。私は、日中はキャリーも置いてきていた。残る2匹を去勢に連れていく時のために、キャリーに馴染ませておきたかった。その上、すっかり懐いてくれた牡猫の名前を呼ぶことも多くなっていた。行き会う人が、「御苦労様」と声を掛けてくれることが多くなり、どこか安心してしまっていたのだろう。避妊・去勢をしたことも、気を大きくさせる原因の一つだった。

以前、管理人さんに、「ノラ猫にエサをあげている人がいるというクレームがあった」と聞かされたとき、私はそれを真正面から受け止め、言いたいことをぶつけた。それを見ていたステーキ屋さんが、あんなに真っ向勝負をしちゃダメだと言った。こっそりご飯をあげていればいいのだから、と。でも、私はそれが嫌だった。管理人さんには、それ以来折あるごとに、猫の捕獲や避妊の話をした。そもそも管理人さん個人は、エサやりに反対なわけではなかったから、私の労をねぎらってくれた。私は、労いの言葉が欲しかったわけではない。ただ、私の代弁者になってほしかったのだ。私に直接クレームを言う人はいなかった。必ず人を介していた。だから、私にクレームの主と話す機会は与えられなった。管理人さんが私の代弁者になることは、立場上無理なことはわかっていたが、一言でもいい、相手にもう一度考えてもらうきっかけになるような言葉を伝えてほしかった。

ステーキ屋さんやお父さんの言う通り、猫たちを守るためには、隠れてこっそり、泥棒のようにご飯をあげなければならないのかもしれない。私は好戦的なのだろうか。私の本音を言えば、このビルを追い出されるまで白昼堂々とご飯をあげ続けたい。もちろん、管理会社、理事会、住民の理解をいただけるよう、書面も配付するだろう。理事会にも出席させていただくだろう。嘆願書の署名運動をするかもしれない。それでも追い出されることになったなら、裁判に訴えるだろう。管理規約が変わっていない限り、敗訴するだろう。それでもいい。コトを大きくすることが肝心なのだ。コトを大きくしない限り、猫はたかが猫として片付けられてしまうのだから。アメリカ人は訴訟好きで知られるが、彼等が些細なことに100万ドルの損害賠償を求めて裁判を起こすのは、「さあ、話し合いましょう」というメッセージだとか。それなら、私も立ち退きに対して1億円の損害賠償を求めようか。そして、経緯の一部始終を書き、世論に問いかけよう。生まれてきた猫がそこに生きる権利と、生きられるよう正当な手助けをする権利が認められるように。その間も、私は猫たちにはご飯をあげ続けるだろう。道路に呼び出して食べさせれば、不法侵入で訴えられることもないだろう。

ここの猫たちは、鳴かない。敷地内に糞もしていない。たまに駐輪場にいることはあっても、居住スペースに出没することもない。彼等の居場所は、金網の向こう。隣のビルとの間のわずか40cmの隙間なのだ。人間もはいれないゴミの山の上がねぐらなのだ。だが、哀しいかな、ご飯をあげる場所はこのビルの共用部分。一般の住人はおよそ入ることのない場所なのだが、共用部分であることに変わりはない。
そもそも「ペット飼育不可」などという規約はなぜ生まれたのだろう。ペット飼育不可がスタートだから、ペット可マンションなどという言葉ができる。私の知り合いのシンガポール人も香港の人も、ハンガリー人もアメリカ人も、「ペット可」という言葉は日本ではじめて聞いたと言う。ましてや「ペット不可」など、聞いたはずもない。それぞれの国では、アパートであろうが、マンションであろうが、ペットと暮らせるのは当たり前なのだそうだ。
もし、「住人に迷惑がかかる」という発想なら、迷惑がかからない方法を考えなければならないはずなのに、「エサをやらない」という形にこだわることが納得いかなかった。道路に呼び出してご飯をあげれば問題ないのだそうだから。「エサをあげないでください」という看板や回覧板が「エサをあげる方は、去勢・避妊、掃除もお願いします」に書き替えられている昨今、未だにこんなことが大手を振ってまかり通ることが哀しかった。そして、私がこそこそご飯をあげることは、そんな体制に屈するようで腹立たしい。だが、私が突っ張れば、私たちの立ち退きの前に、保健所や毒ダンゴが待っているかもしれない。私にどんな火の粉がふりかかっても、一匹の猫の命も犠牲にすることはできない。ああ、やはり白昼堂々、管理規約を破り続けることはできないのかもしれない。