猫の時間、私の時間(H16.6.14)

キャラリンがいなくなって、もう2ヶ月と10日が経った。キャラリンの家は、出ていった時のまま。キャット・ベッドや毛布も洗わずにいる。もう戻ることはないと思う一方で、帰ってきた時に自分の懐かしい匂いの残る家に迷わず入れるように、などと考える。それより何より、ベッドや毛布を洗ってしまったら、キャラリンの面影も思い出も一緒に洗われてしまうような気がして、たまらないのだ。
キャラリンが去って、私はまだ涙をこぼしていない。目頭が熱くなっても、涙の粒を落とさない術を身につけた。切ない思いで一杯の胸の回りに緊張の堰を廻らせ、不用意にその内側を覗かないようにするのだ。だが、その堰は柔なものだ。涙の一粒でも頬を伝えば、あえなく堰は決壊するだろう。それを知っているから、涙はぎりぎりのところで逆戻りさせる。
柔ではあっても、堰を廻らせることができたのは、別れの覚悟があったからだろう。薬の効果も薄れ、ミルクしか飲めなくなり、毛束だらけの体に骨のとんがりが日に日に目立つようになった後ろ姿を眺めながら、やがてくる別れを受け入れていた。
キャラリンは4月5日に家を出た翌日、庭の物置の屋根が大きな音を立てた。びっくりして庭を覗いた私たち家族の目に、キャラリンが物凄い勢いで、物置に続く塀を走り去っていく後ろ姿が飛び込んできた。痩せ細った体だったが、弱々しさなどみじんもなく、不思議な力を感じさせる後ろ姿だった。それが最後だった。それがキャラリンから私たちへの最後のメッセージに思われた。泣いてはいけないと思った。
仕事に終われ、家に戻れば甘えん坊を競う8匹の猫とマイペースのロッキーママや通い猫に囲まれ、ふうーっと大きく息を吐く時間もないままに、2ヶ月が経った。お陰で、キャラリンに向かう思いを引き戻すのも難しくはなかった。明日も、明後日も、同じように過ごすことはできるだろう。でも、強引に閉じ込めたキャラリンへの思いは、時の流れの中で干涸びてしまうのだろうか。それだけは嫌だ。
やがて、キャラリンの家のベッドと毛布を洗う日が来るだろう。その時に、ゆっくりと、存分にキャラリンを思おう。

泣かない術を身に付けたと書いたが、その背景には、猫たちとの過ごし方の変化があるように思う。覚悟した別れはもとより、不条理な遣り切れない別れをも受け入れられるだけの日頃の暮らしが、少しずつできるようになってきたような気がするのだ。

今の家に2匹の猫と私たちが引っ越して5年。その間、我が家には12匹の内猫と3匹の外猫が加わった。そして、6匹の猫と別れた。この家は、「命の時間」を考える、という宿題を与えてくれているようだ。
最初の別れはロッキーだった。車にはねらるという突然の、まったく予期せぬ別れは、私の生き方の根っこを揺さぶった。共に過ごした時間は、たったの9ヶ月だった。
そのわずか2週間後に、ロッキーに『無償の愛』を注いだなっちゃんが後を追った。ロッキーと全く同じ場所で、同じように車にはねられた。なっちゃんとは14ヶ月しか一緒に暮らせなかった。ロッキーの死の衝撃で、仮死状態にあった私は追う討ちをかけられた。
その翌月、何の前触れもなく、マロンが家を出た。マロンとの時間は13年だった。
それから2年半が経ち、17年半を共にしたファイトと別れた。
そのまた3ヶ月半後、私の手に委ねられた弱り切った赤ちゃん猫がこの世を去った。私たちには13時間しかなかった。『めぐちゃん』という名前がついた時には、もう息はなかった。
そして、6匹目の別れがキャラリンだった。細切れにつないで来た時間は2年と2ヶ月だった。

6つの別れは、明日、いや次の瞬間の不確定さを肌を通して教えてくれた。
ロッキーとなっちゃんを事故で失った痛みは、心の痛みなど通り越した。肉体そのものが痛んだ。仕事からの帰り道、二匹がはねられた家の前に近付くにつれ、動悸が激しくなり、総毛立ち、毛穴の一つ一つを針で刺されるような痛みに、思わず両手で身を抱えた。体の痛みから解放されるまでに、1年以上の時が必要だった。そして、その激しい痛みと入れ代わるように、今ここにいる猫たちと向き合う私の胸に、柔らかく穏やかで切ない痛みが根を下ろした。次の瞬間一緒にいられる保証のない一刻一刻のつながり、という猫たちとの時間の本質を、理屈抜きで叩き込まれたのだ。それが新しい痛みの正体だった。
何気なく、元気一杯の4歳の猫たちの背中を撫でる時も、『何気なく』の裏側に、これが最後かもしれない、という思いがうっすらと張り付いている。その裏打ちの思いの分だけ、一刻は重たく、濃くなった。どうあがいても、いずれはやって来る別れの時に備えて、心の準備をしているわけではない。格好良く言えば、毎日共に暮らす猫たちとの一瞬一瞬に『一期一会』を感じるようになったのだ。
いつもそんな風に感じていたら、辛いだけではないか、と思われるかもしれない。重苦しく、息苦しく思われるかもしれない。だが、不思議とそんなことはない。猫たちとの時間は、相変わずあたたく、ふんわりとしている。それでも、今は命の根っこのところで、触れあっているような気がするのだ。私が少しは優しくなったのかもしれない。

人間の一生は、自分でちゃんと捕まえるには長過ぎるように思う。長過ぎて、一刻一刻が見えないほど、薄まってしまう。猫たちが持っている時間を自分の時間として捕まえることによって、私は、ようやく時の重さに目覚めた。
猫たちとの別れの時にどんな顔をしていられるかは、私が死ぬ時にどんな表情を浮かべているかということと同じような気がする。相手がだれであれ、猫であれ、人間であれ、その命の時間に対して優しくありたいと思う。