脱皮(H.16.12.28)

 2004年もあと3日を残すばかりとなった。1月3日の仕事始めから今日の仕事納めまで、何とも慌ただしい一年だった。年末の事務所の大掃除も、例年のように丁寧にはできず、家の大掃除に至っては、皆のスペースだけ取り敢えず、といった具合で、きちんとした締めくくりができそうもない。思えば年々慌ただしさが増すばかり。ひょっとして年のせいかと、訝しく思う。
 『尻重返上』を目標に掲げてスタートした2004年だったが、今年ばかりは、尻が重かったのではなく、時間を上手に作れずに、一年8784時間のうち、3171時間を事務所で過ごした。13匹の内猫を抱えていては、旅行など端から諦めているが、美術館、図書館、映画、公園など、ほんのちょっとした外出も出来ず仕舞いだった。

 それでも、私にとって2004年は、こと猫に関しては、脱皮の年だった。これまで、多くの猫と接してきたと云っても、すべてが自己完結型だった。保護の必要な猫を見れば、連れ帰る。縁あって、家に居着いたり、ふらりと立ち寄る猫がいれば、家族のように食住を提供する……こんな自己完結型の付合いには限度があることを承知していながら、その殻を打ち破ることができずにいた。この殻の向こうに、もっと多くの猫たちの哀しい目や弱々しい鳴き声があることはわかっていながら、どうすることもできなかった。2年半前にこのHPを立ち上げたのも、そんな私の焦りに根ざしていた。
 「もう一匹猫を家族に迎えてもいいなと思うのに、なぜか私を必要とする猫に出会わないの。私にその力がないからなのかな」
 こんなことを言っていた友人がいた。神様は、背負いきれないような荷物は決して背負わせない、と良く言われる。苦難の底に沈みそうになっている時に、何度も噛みしめた言葉だが、これを裏返すと、荷物を求めても荷物に行き当たらないのは、それを自分が背負うことができないからなのかもしれない。5年前、家の猫が11匹になった時、私は、公園や遊歩道を通ることを止めた。保護の必要な猫に出会っても、もう連れ帰ることができないと思ったからだ。それでも、どうしようもない出会いはあるもので、猫の数はさらに増えた。我が家のキャパシティが、私が思ったより、ほんの少し大きかったということだ。

 今年、ついに「自己完結」という殻が打ち破られた。階下のステーキ屋さんがご飯をあげていた猫一家の雌猫が、ほぼ同時に赤ちゃんを産んだのだ。正確に何匹生まれたのか、今でもわからない。
 私の最初の仕事は、雌猫の避妊だった。長年ご飯をあげていたステーキ屋さんでさえ、指を触れることのできない大柄な猫たちは、眺めているだけなら顔だちの良い美しい猫だが、いざ捕獲するとなると野性のヒョウのように思えた。猫受けの良い私でも、そう簡単には手なずけられそうもない。今思えば、捕獲する、という下心を見抜かれていたのだろうが、私と猫たちの距離は一向に縮まらなかった。私は初めて人を頼った。以前、お店に里親募集のポスターを持って来られたSさんに電話を入れた。Sさんは、すぐに来てくださった。突然の電話相談だったのに、飛んで来てくださる、その事にただただ驚いてしまった。ありがたかった。心強かった。独りではなかった。
そして、HPに会社の外猫の話を書くようになって、本当に多くの方からメールをいただいた。ご自身の経験をお話くださり、激励の言葉を掛けていただいた。Iさんは電車を乗り継いで駆け付けてくださった。
 初めて目にした捕獲器なるものは見るからに物騒で、とても使える代物ではないように思えた。獣医さんにお借りしたまま机の上に鎮座している捕獲器と睨めっこする日が、ずいぶん続いた。そんな私の弱気の虫を押さえ込み、捕獲器を仕掛けさせてくれたのは、親身になって応援してくださる猫三昧仲間の力だった。捕獲器を使い、避妊、去勢に連れていった成猫は2匹。その後、キャリーで4匹の避妊・去勢ができた。
 赤ちゃん猫は人の入れないビルとビルの隙間にいる。保護したくても、隙間から出てこない限り無理な話しだった。隙間からよちよち出てくるのを待つ間に、赤ちゃん猫は子猫になっていった。何とか捕まえる度に一旦家に連れ帰った。トイレや爪とぎの躾をしつつ、里親を探すつもりだったからだ。もちろん、里親が見つからなければ、neco家の家族として受け入れる覚悟だった。1匹目、2匹目、3匹目、と時が流れるにつれ、捕まえた子猫の警戒心はどんどん強くなっていった。4匹目の子猫が、ベッドの下に引きこもり続けるのを見るに至って、これ以上連れ帰ることは無意味と判断せざるを得なかった。4匹目の子猫でさえ、とても里子に出せるような状態ではないのだ。5匹目以降は、さらに人を恐れるだろう。地域猫として見守るしかないと覚悟を決めた。地域猫として責任を持つことの方が、同じ屋根の下に暮らすことより数段心労が多いだろうことは予想できたが、そうするより他に手立てはなかった。これが私の脱皮だった。脱皮は、しようと思ってするものではなく、せざるを得なくなってするものだと知った。

 ただ、私の脱皮も薄皮一枚で終わってしまった。4匹目の子猫は里子に出せないとしても、他3匹には里親を探すつもりでいた。少なくとも私は、そのつもりで、別れの辛さも覚悟していた。何かと心配してくださっていたSさんに教えていただきながら、ポスターを作った。まずお店に貼った。HPにも載せた。Sさんは、時間も体も惜しまずポスターを持って歩いてくださった。お陰でペットショップや獣医院、図書館やお風呂屋さんにも掲示していただけた。希望者からの連絡が入ったときの対応も、その後の手順も丁寧に教えていただいた。Iさんも、頻繁に様子を尋ねてくださり、自らもお知り合いに打診をしてくださっていた。
 しばらくたったある日、里親を引き受けてくださるという方がお店に見えた。すでに2匹の猫を里子として迎えていたその御夫婦は、願ってもない里親さんだった。先住猫との折り合いもあることから、しばらく様子を見るという条件で、レオナを連れていく日取りが決まった。里親募集をしながらも、どこか人ごとのように構えていた私は、その準備に慌てた。そして、別れの日の前日、「あたち、行きたくな〜い、ってママに言いなさい」というお父さんの一言で、私はめげた。進んでめげた。ほっとしてめげた。誰かが、里子に出すのは止めよう、と言ってくれるのを私は待っていたのだ。正直に言おう。ポスターを作りながらも、皆さんにお手伝いをお願いしながらも、どうか里親希望の方がいませんように、と祈っていたのだ。より多くの家のない猫を保護するには、多くの方に里親さんになっていただくしかない。それがわかっていたから、3匹を里親さんに託そうと思った。でも、やはりできなかった。別れの辛さが、我が家のキャパシティをさらに大きくしてしまった。そして、もう一息の脱皮が叶わなかった。

 この経緯は、日記にも綴ったが、改めて心からお詫びしたい。
 Sさん、Iさんをはじめ、御心配いただいたたくさんの皆様、本当にごめんなさい。別れの悲しさを乗り越えて、里親さんに猫の明日の幸せを託すことができるようになるまで、もう少し時間がかかりそうです。本当にごめんなさい。

 表になり陰になり、多くの方々のお力添えをいただきながらも、今の私はここまでしかできなかった。だが、素直に人に頼り、そんな私のSOSにたくさんの方が思いも寄らぬほど応えてくださったことを知り、私の世界は一回りも二回りも広がったように思う。地域猫と関われるようになったことが薄皮一枚の脱皮なら、この「人」との関わりは大変身を約束するような大脱皮なのだろう。私は、そんな変身がしたくて、このHPを作ったのかもしれない。

 この一年、私を支え、事務所の外で産み、生まれた猫たちを見守ってくださったすべての方々に、心からお礼を申し上げ、感謝とともに2004年を閉じよう。
皆さん、本当にありがとうございました。