タマサブローの闘病日記 (H24.5.31)

*タマ、どうした?

会社の外猫さんは、人一倍警戒心の強い一族だが、結束力、土着性にかけても群を抜いている。
朝はご飯当番の私の到着を整列して迎え、昼間は駐輪場の自転車の間で昼寝をし、夕刻になるとステーキ屋さんの勝手口の前で夕飯を待つ。
彼らもたまには散歩に出掛けるものの、一日の大半を半径10mの中で過ごしている。
駐輪場に自転車を止めたり、ゴミを出しに来るビルの住人は、毎度、彼らと遭遇することになり、青い目の美しいズレータと、一族では一番人なつこいタマサブローはとりわけ多くのファンを持つことになった。
デジカメ持参で彼らのベストショットを狙う人、仕事の合間のひととき、彼らをそっと眺めて過ごす人……彼らとの付き合いは様々だが、ある日、猫缶をどっさり入れた牛乳パック製の皿が駐輪場の端に置かれていた。
これまでも、私やステーキ屋さんが置いた皿に、ちょっと贅沢なカリカリが入っていたりもしたが、餌場ではない所に、ドカンと大量の缶詰が置かれたのは初めてのことだ。
人目もあり、またいつ置かれたものかも判らず、食べ残された猫缶は簡易皿ごと片付けるようにしたのだが、時を同じくして、タマが朝ご飯をわずかしか食べなくなった。ホワイトソックスもいつもの食欲を示さない。あのご飯を食べたからお腹が一杯なのだろう、と最初はさして気にも止めずにいた。ところが、ご飯の匂いを嗅いだだけで、一口も口にせず、大量の水を飲み続けることが2日も続けば、さすがに心配になる。ステーキ屋さんに夕食の様子を尋ねると、タマはその前日、まったく食べなかったとのこと。私は、大急ぎでキャスター付きのキャリーを調達し、タマを入れて、近くの動物病院へ向かった。
会社周辺にはいくつかの動物病院があるが、名医との評判の高い病院は一番遠い。吐き気がするらしく、ぺろぺろと舌を動かすタマを見ていると、インターロッキングの施された商店街の道を、ガタガタと長い距離運ぶことは憚られ、一番近くの病院に急いだ。
幸い診察を待つ人もいなかった。問診票に症状と経過を詳しく書き込むと、すぐ診察室に通された。地域猫であることを伝えたからか、先生はタマをネットから出さないまま聴診器を当て、血液検査もせず、輸液と吐き気止めの注射をして診察終了。これで終わり???
診察は呆気なかったが、先生の話は続いた。猫は体調が悪いと症状として嘔吐や吐き気に出ることが多い……人間だったら、吐き気がすれば水も飲まずに過ごすが、猫は水を飲んでしまうから、さらに吐き気を助長し、悪循環となる……8歳になったなら、シニア用のフードを与えるように……シニア用は、高齢猫に不要な物は取り除かれており、必要な成分が強化されている……云々。タマの症状の原因に言及する言葉は一言もなかった。腎臓疾患を疑っていた私は、タマが大量の水を急に飲み出したことを再度伝えたが、以前から多飲多尿が続いていたのでないならば、腎臓疾患は考えにくい、とのことだった。じゃ、何が原因???先生が繰り返し使う『野良ちゃん』という言葉に違和感を感じながら、何の安心も納得もいかないまま、病院を後にした。
タマの症状は、急性の腎不全か、肝機能傷害、あるいは膵臓疾患、ひょっとしたら毒物によるものかもしれない………素人考えではあるが、いろいろな可能性が頭を巡っていた。病院に行ったのに、タマの体に今何が起きているのか、何一つ判らないままだった。輸液と吐き気止めの薬効に期待するしかなかった。

*タマの危機

翌朝もタマの朝食時の様子は前日と全く変わらなかった。一旦、事務所に戻り、バルコニーからそっと見下ろすと、タマはあっちゃんと並んで、発砲スチロールの箱の上で両手を体の下にたくし込み、じっと座っていた。一見すると、仲良く日向ボッコを楽しんでいるようにも見えるのだが、その姿からは穏やかな温もりは伝わってこなかった。しんと静まり返った生気のない光景に、私は、キャリーを抱えて、階段を駆け下りた。遠くとも信頼できる先生の元にタマを連れていくことに決めていた。
昨日の今日で、タマはさすがに逃げた。金網に爪を掛け、必死に抵抗するタマを、背後から有無を言わさず押さえ込み、金網から引き離してネットへ。タマはネットの中でも暴れ続け、ネットを引き裂いたが、その瞬間、何とかキャリーに押し込めることができた。温厚なタマからは想像もつかない抵抗だった。
道々、不安気な鳴き声をあげるタマに、私はごめんね、ごめんね、と繰り返しながら、病院へ急いだ。
「野良ちゃんとは思えない、きれいな子ですね」……ここでも『野良ちゃん』か、とは思ったが、前日さんざん聞かされていただけに、その言葉は右耳から左耳へと抜けていった。問診のあと、丁寧な触診、そして血液検査、X線撮影。
検査結果は、BUN:140オーバーの測定不可、クレアチニン:8.8。猫の正常値はそれぞれ20〜30、0.8〜1.8 だから、タマの数値は危機的な腎不全を示していた。X線の結果、腎臓は萎縮していないことが判ったものの、重度の尿毒症を起こしており、即刻入院となった。
「何で?何でこんなに急に……朝食を全く食べなくなって2日目には輸液、今日はまだ3日目だというのに……」そんな私の思いを読み取ったように、先生は「ここにお連れになったのが十分に早かった、というわけではありませんよ」と言われた。それでも合点がいかなかった。私はこれまで何匹もの慢性腎不全の猫を看取ってきた。彼らの腎不全は、長い時間を掛けて、徐々に進行していった。タマに病気の初期症状が見えれば、気づいたはずなのだ。何か、毒性の物を食べたに違いない、慢性腎不全ではなくて、急性の病気に決まっている、急性の病気なら適切な治療ですっかり快復するはず……そう信じたかったし、半分は信じていた。

タマを病院に残し、事務所に戻るなり、インターネットで猫の腎不全について調べ始めた。「BUNが70〜80を超えないと、猫は目立った症状を現さない」というくだりに行き当たり、私は、タマちゃんの今の状況を素直に認めざるを得なくなった。重度の慢性腎不全……先生は直接的な表現は避けておられたが、生死の瀬戸際にあることを受け止めなければならなかった。自分では、タマが食べなくなって2、3日で病院へ連れて行けたことを、素早い行動と思っていたのだが、とんでもない。先生の言葉通り、十分に早かったわけではなかったのだ。自分の観察力の鈍さを思い知らされた。

それにしても、こんなに重篤な状態なのに、タマがいつもの場所に出て来てくれていたことが奇跡のようだった。動物は自分の体が弱ると、外敵から逃れるために身を隠す。猫は死に際を人に見せない、と言われるのも、その本能的な行動の結果だ。だが、タマは姿を隠すことをしなかった。ならば、精一杯の治療と療養をタマちゃんに約束するのが、私の務めと思った。タマちゃんと心を結び、二人三脚で歩き続けようと自分に誓った。

翌日、タマのお見舞いに出掛けた。タマは、生まれて初めて病院のケージに収められ、静脈点滴を続けていた。もともとつり目のタマだが、カッと見開いたその目は他を寄せ付けない程、怖かった。見慣れた私の顔を見、声を聞いても、表情は変わらなかった。ケージを開けてそっと背中をさすっても、固まったように身じろぎ一つしない。手のひらに伝わるタマの体温だけが、タマが生きていることの証だった。
点滴を開始して24時間が経ち、再度検査したところ、前日測定不能だったBUNが105という数値を示した。クレアチニンは5.9。数値が下がったことに、思わず声のトーンが上がった私に、先生は、依然として楽観は許されないことをさらりと告げた。
タマには毎日会いに行った。水を飲むだけで何も食べようとしないタマに、腎臓の療法食が強制給餌されていた。右腕の点滴は間断なく続けられた。


右腕には点滴のチューブが


顔の表情が和らいで来たのは、一週間が経った頃だった。病院の雰囲気にも、狭いケージにも、先生や看護士さんにも慣れ、気分も一時より良くなってきたのだろう。後に先生に教えていた

だいたことだが、入院当初の目の吊り上がったキツい表情は、尿毒症が引き起こす典型的なものだそうだ。
その目に穏やかさが戻り始めたタマは、体も随分動かすようになっていた。ケージを開けると、身を起こし、お隣のケージで爆睡している病院猫のウルルンを覗くようにもなった。腎臓の療法食は自ら食べないものの、夜、普通の猫缶を少量入れておくと、翌朝にはなくなっているとのこと。3度目の血液検査の数字がそれを裏付けていた。BUN88、クレアチニン5.7。クレアチニンの数字が思うように下がらないが、慢性腎不全となれば、激減は期待できないのかもしれない。

 

*残された二匹

昨年の秋にズレータが姿を消し、今度はタマが入院し、会社の外猫さんは、ホワイトソックスとあっちゃんの二匹となってしまった。5匹並んで、隣のご飯皿の中身を横目で見ながら、自分のご飯を競うように平らげていた頃が嘘のようだ。
最初にいなくなったのは、タマの兄妹コアネちゃんだった。ある日突然仲間入りした血縁のないあっちゃんに、追われる形で姿を消した。近所を必死で探し歩いたが、見つけることはできなかった。避妊も済ませていたから、餌場さえ確保できれば、元気に暮らしていけるだろう、と自分を納得させていた。ところが、ひょんなことから、コアネちゃんと思われる猫の消息を知ることになった。
その報をもたらしてくれたのは、タマがお世話になっている動物病院の先生だった。タマの毛色はグレー/白で、グレーの部分の縞が余り目立たない比較的珍しい毛色だ。先生によると、昨年、タマに瓜二つの猫がKさんに連れられて来たという。Kさんは、事務所の近くの方で、隣の神社にやって来る猫たちのご飯の面倒を見ている人だ。連れられて来た猫はタマと同じような年齢だったという。コアネちゃんに違いなかった。コアネちゃんは、タマと見分けが付かないほど似ていた。タマサブローという名は、タマの首の白い部分にある玉のようなグレーの斑に由来するもので、それがコアネちゃんと識別する唯一の目印だった。
コアネちゃんは、肝臓を患っていたという。先生は、8歳という年齢で重度の腎不全に陥ったタマから、同じく老せずして肝臓障害を起こしたコアネちゃん(Kさんには違う名前で呼ばれていた)を思い起こし、もし、血縁であるなら、内臓の弱いDNAを持っているのかもしれない、と考えたようだった。
コアネちゃんが生きていてくれた、しかもKさんのお世話になり、病院にまで連れてきてもらえた……嬉しかった。私の手をすり抜けてしまった命が、Kさんの庇護のもとで繋がっていた。
コアネちゃんの病状を案じ始めたのは、病院を後にしてからだった。翌日タマのケージの前で、看護士さんに尋ねた。コアネちゃんは亡くなっていた。心のどこかで予想していたのか、或は、助からなかったとは云え、ちゃんと治療を受けられたことへの感謝が先立ったのか、おそらくその両方だったのだろう、寂しさは一陣の風となって、胸をさっと吹き抜けていった。

コアネちゃんがいなくなり、4匹となった外猫さんだが、ホワイトソックスを要として小競り合い一つなく、寄り添うように暮らして4年。ズレータが突然失踪した。近所の店舗にも協力いただき、ポスターがずらりと貼られ、連絡先を書いた切り取り部分は、どんどんとなくなっていったが、情報は一本も入らなかった。警察、保健所、動物愛護センターにも該当なし。ステーキ屋さんの広域探索も空振りだった。警戒心が強いから、容易に人には捕まらないと判っていながら、もしかしたら、あの人の家にいるのでは、などと都合良く思い込もうとした。しばらくして、その人と行き会った時に、ズレータがいなくなったことを話題にしたのだが、藁をも掴むような思い込みが、呆気なく打ち砕かれただけだった。
タマの診察のとき、先生に猫の突然死について尋ねてみた。一番考えられるのは心筋梗塞だとのこと。ズレータは鼻の気道が狭くなっているようで、半年ほど前から、体全体で息をするようになっていた。心臓にもそれなりの負担は掛かっていたことだろう。突然死……可能性のリストの一番最後に押しやっていた文字が、急に大きくなったように思えた。そうかもしれない。もし、そうなら、長患いの苦しみがなかったことを感謝しよう。そう思いつつも、私のデスクの隣に置いてあるズレータのベッドはそのままで、中にはご飯皿が2つ今も伏せられている。

ズレータの姿がなくなり、外猫さんは3匹となったが、彼らに目に見える変化はなかった。だが、その4カ月後に、タマが見えなくなり、たった2匹となったホワイトソックスとあっちゃんは、さすがに堪えたようだ。
金網にしがみつくタマを強引にネットに押し込める私を遠目に見ていたあっちゃんは、私を警戒するようになった。私が居る間は、朝ご飯にも近寄ろうとしない。人一倍臆病なホワイトソックスは、ご飯もそこそこに、さっと身を翻して去っていく。半分以上残ったままの猫缶を手に取り残された私は、かつての賑やかで生気に満ちた朝ご飯の光景を、だれも居ないコンクリートのスクリーンに映し出していた。
ホワイトソックスは、今日も、気の小ささと反比例する大きな声で、訳もなくないている。


*タマの退院

入院して10日目、私の休みの前日の夜、タマは退院して、我が家で自宅療養することになった。退院時のBUNは63、クレアチニン5.1。「あの日、お連れにならなかったら、タマちゃんは今頃すでに亡くなっていたと思いますよ」……生死の崖っぷちから、何歩か退くことができて、初めて口にすることのできる先生の言葉だった。右手にタマを入れたキャリー、左手にクレメジンとフォルテコール、腎臓の療法食を詰め込んだ袋をぶら下げて、病院を後にした。

タマは、車に揺られて30分、我が家の門をくぐった。どんなに状態が安定しても、二度と元の暮らしには戻れないとのことだから、タマの病室として整えた二階の東南角部屋が、タマの終の住処となるのだろう。
漸く慣れた病院のケージから、再び見知らぬ空間に連れて来られ、タマはすぐさま、カーテンの裏側に隠れた。

カーテンの陰に隠れて

さっそく療法食の強制給餌に取り掛かったが、1パックの四分の一を食べさせるのが精一杯だった。カロリー的には、一日に3パックを摂る必要があるそうだが、朝晩の2回しか給餌できない我が家では、1パックを食べさせることさえ不可能だ。いきなり大きな課題を抱えることになった。すでに体重は随分落ちている。このまま、カロリー不足では、体を維持できない。せめて大好物だった缶詰でも食べてくれれば、とあれこれ鼻先に持っていくのだが、稀に食べても一口か二口。ドライフードに至っては、匂いさえ嗅ごうとしない。末期の腎不全だったらーちゃんの強制給餌は、a/d缶毎日1缶だったことを思い出し、先生の指導も受けぬまま、a/d缶に切り替えた。注射器で否応無しに口に絞り出される食餌が美味しいはずもないのだが、従順なタマは、一口一口を飲み込んでくれた。一日一缶が、タマの体に入っていった。

腎不全の猫にとって、もっとも気を使わなければならないのがストレスだそうだが、我が家での療養生活は、タマちゃんにとってはストレスの固まりだ。これまで、一族で仲良く暮らしていた高円寺のテリトリーから切り離され、見も知らぬ家の中の六帖の部屋に閉じ込められている。家の中の生活音すべてがタマちゃんを怯えさせる。他の猫たちの気配や鳴き声には全く動じないが、別の部屋のドアの開閉の音、廊下を挟んだ洗面所の水が流れる音、絨毯の上を歩く足音……全てに身をこわばらせている。掃除機の音等、言わずもがなだ。だが、このストレスを取り去ることはできない。タマちゃんに慣れてもらうしかない。不憫だった。その分、タマの体に良いと思われることは、何でもしようと思った。
まずはブラッシング。朝晩2回、丁寧にブラシを掛ける。タマは、目を細め、喉を鳴らして、応えてくれる。給餌後には、蒸しタオルで、汚れた口元、胸元から頭、背中、手足、と包むように拭いていく。蒸しタオルは、とりわけ気に入ったようで、タオルを手に部屋に入って来る私を見るや、タマは顎を上げて、受入れ準備を整える。小さな幸せの時間だ。
それから、H4O。インターネットの情報で、H4Oという高濃度水素水が猫の慢性腎不全に効能があるらしい、と知るや、さっそく入手。お水の皿2つにH4Oをなみなみと注いだ。タマは、水が変わったことに気づいた風もなく、皿は順調に空になっていった。

*退院後、初の通院

退院後、初の診察日を向かえた。朝、出勤の時に一緒に家を出て、病院へ。キャリーに入れられ、車に揺られ、気分の良いはずもなく、しきりと口回りを舐めている。車酔いしたのかもしれない。早く着かないかと、焦れば焦る程、渋滞にはまり込む。
ようやく着いた病院で、さっそく皮下輸液開始。
退院時いただいた療法食の強制給餌が無理で、a/d缶に切り替えたことをお話しすると、a/d缶は高タンパクで、腎不全には好ましくない、とのこと。キドナというチューブ・ダイエットに切り替えるように、との指示をいただいた。H4Oについては効果の客観的データはないが、害するものではないので、続けてもOK。タマのために他にできることはないか尋ねると、自宅での輸液を勧められた。輸液の手順を教えていただき、翌日から開始することになった。

タマちゃんを終業時まで病院に預け、乳酸リンゲル液と輸液セット、注射針、一週間分のクレメジンとフォルテコール、キドナを入れた袋を抱え、薬局で脱脂綿と消毒用アルコールを買い込み、仕事場へ。
タマが病院に居てくれるという安心は、どれほど気持ちを楽にしてくれることか。狭いケージに閉じ込められたタマには、迷惑な話しかもしれないが。

病院から自宅に戻ったタマは、これまでにない食欲を見せた。ケージから解放された安堵感と、病院でのリンゲル+αの輸液の薬効からだろう。いい調子!
強制給餌はキドナに替えることになったが、先生によると、あまり口当たりは良くないとのこと。キドナだけで必要カロリーを摂取しようとすると、1日3袋を摂らなければならない。不味いものをそんなに食べさせることは無理だ。少ない量で必要なカロリーを摂るにはどうすればいいか、と考えて、ドライの腎臓療法食をフードプロセッサーで細かくし、キドナを溶いた中に混ぜることにした。キドナにはクレメジンも入れるので、見た目もおどろおどろしいものが出来上がったが、これもタマのため、と注射器に吸い込もうとした段階で、早くも挫折。砕いたドライフードが注射器の入り口でつかえて、吸い込めない。やれやれ。タマの我慢に期待するしかないのだろうか。タマに食べさせる前から、諦めムードに包まれた。
案の定、タマの一口目の反応は凄まじかった。頭を左右に大きく振り、絞り出したキドナは、壁に飛び散った。その激しい抵抗がかえって、こちらの気持ちを座らせたようで、タマの頭を押さえる左手にぐっと力が入った。めげないぞ。タマは、その力に気圧されたのか、二口目は何とか口から喉へと流れていった。気持ちの強い方が勝つ。

これで、自宅輸液が加われば、と期待は膨らんだ。
翌日、ぶっつけ本番の輸液の時を迎えた。輸液用に小さなテーブルを隣室から移動。リンゲル液はS字フックで、クロゼットの天袋の金具に吊るし、輸液セットを装着。注射針をセットして、液を通す。アルコール綿の準備もOK。助っ人のお父さん入室。さあ、タマ、お出で。
見知らぬテーブルに載せられ、めったに顔を合わせないお父さんに体を押さえつけられ、タマの内心はパニック状態だっただろう。だが、もっとパニックだったのは、私だ。教えていただいた手順に従い、首の後ろ側を消毒。いざ、針を。何だ、簡単だ。すっと出来た。さあ、点滴を全開に……ところが、リンゲル液がタマの首もとから毛を伝って滴り落ちてくる。待って、待って。点滴を止める。何のことはない、注射針はタマの首の毛の中に隠れていただけだった。えっと、えっと、針を消毒し直すんだったっけ。それから、もう一度、タマの首を消毒して。気を取り直して、もう一度。今度はかろうじて成功。何とか、100ccの乳酸リンゲル液がタマの体に入っていった。だが、針がきちんと通った感触は全く手に残らず、しばらくは、こうしたドタバタが繰り返されることになった。


*後味の悪い癇癪

タマが我が家にやって来て、私の起床時間はさらに30分早くなった。
私の朝は、起きてから出勤までに、10匹の猫たちの食事と庭の草木の世話。家中の掃除、洗濯。超特急で朝風呂に入り、仏前で読経をし、朝食を作り、食べ、後片付けをし、身支度を整えて、出勤、という目まぐるしさだ。これにタマちゃんの食事が加わったのだから、睡眠時間を削らざるを得ない。すべてが時計を見ながらの仕事となる。

タマの食事は、まず、気に入りそうな猫缶を自分で食べられるだけ食べてもらい、その後に強制給餌に移る。自力で食べる量は、僅かなものだが、一日キドナ2袋半を注射器で食べさせているから、栄養価やカロリーの心配はせずに済む。
長年の猫との付き合いの中で、私の錠剤の飲ませ方は天下一品、強制給餌の腕前もなかなかのものだ。もっとも、強制給餌は、こちらと給餌される側の阿吽の呼吸が大切で、いくらこちらが熟練していても、本人次第でとんでもなく手こずることにもなる。強制給餌は食べる側の協力なくしてはできないのだ。ひとたびタイミングを逸すると、注射器から絞り出される療法食は口の中に収まらずにだらだらとこぼれ落ち、それを嫌がる本人は首を振って、口元の汚れを振り払う。こうなると、次の一絞りは、歯を食いしばって拒否される。注射器の中の療法食は、周り中に飛び散るだけで、一向に体の中に入っていかない。
朝の分刻みの忙しさの中で、この不手際は許されないことだった。

ある朝、タマと私の呼吸は全く合わなかった。給餌はまったく進まず、私は焦った。何としても食べさせなければならないし、ゆったり構えてタイミングを計る時間もなければ、心のゆとりも失っていた。
「ちゃんと食べなきゃだめでしょ!!」
私は声を荒げた。鬼のような形相だったに違いない。タマは、聞いたことのない声のトーンと、私の敵意剥き出しの表情に敏感に反応した。荒々しく口に突っ込まれた注射器から出てくるキドナを、観念したように飲み下していった。
ああ、何ということをしたのだろう………給餌を続けながら、後悔の涙がこぼれた。辛いのは私ではない、タマなのに……。腹を立て、癇癪を起こして、これほど後味の悪い思いをしたことはなかった。これほど悔いたことはなかった。二度と再び怒らない……後悔は自分自身への誓いとなった。

怯えるタマ


首尾よく給餌できたときのタマ

 


*H4O デッドストック?

高濃度水素水であるH4Oは、1パック100cc入りだが、多飲多尿のタマは、一日に2本以上を飲んでいた。ペット用のH4O なので私は飲んだことがないのだが、普通の水とは味が違うらしい。タマが飲まない可能性を考えて、まずはお試しの20本を注文したのだが、あっと云う間にストックがなくなっていった。慌てて、今度は60本入りのケースを発注。だが、到着までに手持ちが底をつきそうだった。H4Oは普通の水と混ぜてしまうと、水素が遊離してしまうそうなので、水増しはできない。H4O入りの皿と普通の水を入れた皿の二つを用意して、当面を凌ぐことにした。
これが、失敗だった。
あんなに喜んで飲んでいたH4Oが一向に減らなくなった。飲むのはもっぱら普通の水だ。普通の水が空になっても、H4Oは手付かずに残された。匂いだけで識別できるらしい。ならば、と普通の水の皿を片付けてもH4Oは二度と飲まなくなってしまった。水のない状態を続けるわけにもいかずに、結局、普通の水を再び置き、古くなったH4Oは捨てる羽目に。
そうこうするうちに、60本入りのH4Oがどーんと届いた。
一体どうするの?デッドストックになっちゃうの?
最初にH4Oを与えた時、なぜ飲んだのだろう。体調が悪くて、味の変化に気づかなかったのだろうか。
たった一度のトライが、タマとH4Oの縁を切ってしまった。う〜ん。

 

*頑固な便秘

3月の下旬から、動物病院の先生が10日間不在だった。その間、本当に心細い思いだったが、タマは何とか小康状態を保っていてくれた。
気になったのは、便秘だ。退院して2日目になかなかの便をしてから、10日以上も音沙汰なしだ。相談したくとも先生はいらっしゃらない。独断ではあったが、ぬーちゃんが毎日服用している緩下剤ラキソベロンを飲ませることにした。二晩続けて飲ませても、効果なし。さぞ苦しかろう、と翌日は朝晩2回投薬。さすがに効き目があったようで、無事、開通した。ただ、待望の便の前には、頑張って食べた強制給餌のキドナが吐き出されていた。気張ったためだろうか。

先生が病院に戻られた初日、安堵と共に、タマを連れて病院に向かった。車に揺られる間、タマは今迄になく、ないていた。今暮らす部屋を、自分の空間と思えるようになり、そこから移動することに不安を感じているのだろうか。
前回、ケージの中で急に立ち上がり、周囲を眺め始めた古巣の高円寺に差し掛かっても、何の変化もなく、ないていた。

先生が不在中の心細さは、先生への報告となって溢れ出した。
自分で食べる食事の量は、1日に小さな猫缶3分の2程度であること、強制給餌はキドナを25gずつ1日2回続けていること、便秘とラキソベロン投薬のこと、etc.etc。
体重は5.15キロで前回と増減がなかった。腹部のへこみや後足の腿の細り、尾てい骨の尖りが気になっていたので、体重が保たれていたことには殊更ほっとした。
便秘については、水分の排出量が多くなる慢性腎不全には起こりがちだとのこと。巨大結腸症のような便秘とは異なるので、さして心配はないそうだが、腸の動きを促す薬を処方していただくことになった。

この日も仕事中は病院で預かっていただき、終業後迎えに行くと、ホワイトソックスなみの大声が聞こえてきた。どうやら、私の声を聞きつけて、なき始めたらしい。
病院にいる間、タマは、静脈点滴を続けていたそうだ。便秘の改善にも効果があるだろうとのこと。その日服用分の便秘薬も、病院で投薬していただいた。
薬効は顕著で、翌朝、納得の便と再会できた。ただ、今回も、便の前には食べたものがそっくり吐き戻されていた。不憫だったが、仕方がない。一日おいた翌日にも便通があり、この時は、吐いた跡はなかった。

 

*強制給餌ストップ

心配の便秘は解消したものの、自分で食べる食事の量が極端に減ってきた。気が向けば一口か二口、匂いすら嗅ごうとしないことがほとんどだ。
動作はまるでスローモーションを見ているように緩慢で、テーブルの足に体を擦り付けようとすると、よたよたとバランスを崩してしまう。腿の細りと同調するように、後足が萎えている。
強制給餌は、タマと私の呼吸が漸く合うようになり、こぼすことなく短時間で終わるようになったが、体は目に見えて細ってきた。顔は三角に尖り、肋骨から下の脇腹は日に日にへこんでいく。背骨の節は撫でる手に痛々しさを残す。尾てい骨の尖りは言わずもがなだ。
ごつごつの体は、猫の持つしなやかさをすっかり失い、生きながら死後硬直が始まったのか、と思う程だ。
貧血が進んでいるのだろう、鼻の先も、耳も、肉球も真っ白になった。
毎晩の輸液も、私一人でできてしまう程、無抵抗。注射針を抜いても、そのままの姿勢で動かない。
意識も混濁しているのか、水の皿の上で、ぺちゃぺちゃと舌を動かすものの、水には届いていない。2つの皿に並々と注いである水は、一向に減らなくなった。


赤味を失った肉球。
コンクリートの上で暮らした8年で肉球は岩のよう。

 

わずか4日の間の急激な衰えを、私は呆然と見つめるしかなかった。目の前で、タマが壊れていく……。
慢性腎不全のらーちゃんは、強制給餌だけになっても5カ月生きてくれた。タマにもそれぐらいの時間はあるものと思っていたのに。

次回の診察日を待たず、私は一人、病院へ行き、できる限り克明に状態を伝えた。さらなる治療は人工透析だが、あまり現実的ではないこと、強制給餌もここまで来るとタマの負担となるかもしれないこと、便秘用の薬は中止すること……先生は、的確な指示を与えてくださった。タマが残された時間を少しでも楽に過ごすためにできることは、輸液しかないようだ。私のこれまでの献身を労ってくださる先生の言葉に誘われて涙が浮かんだが、その涙は覚悟と共に、こぼれることなく、胸の奥に仕舞い込まれた。

強制給餌はタマの負担になるだけ……そうかもしれない。きっとそうだろう。でも、強制給餌を止めることは、タマの残された時間を私が決めるようで、堪え難い選択だった。
らーちゃんの強制給餌を続けていた時のことを思い出した。毎日1缶続けていた給餌が、最後の一月の間に4分の3となり、3分の2となり、半分となり、3分の1となり、やがてゼロとなった。毎日給餌している者には、これ以上は無理、という限界が判るのだ。今、タマは、所定の量の給餌を受け入れてくれている。受け入れてくれる間は、受け入れてくれる分を給餌しよう。そう決めた。

そんな私の迷いや、迷った揚げ句の決意を知ってか知らずか、その晩、タマは、乗せられた給餌用のベッドから、ものすごい勢いで、逃げ出した。こんな俊敏さが残っていたのか、と思う程の素早さだった。これまでも強制給餌が歓迎されたためしはなかったし、いつの頃からか、給餌用のセットが載ったトレイを見ただけで、タマは口をぱくぱくと動かしながら頭を振るほど、トラウマになっていた。どれ程大きなストレスだったことだろう。それでもタマは、最初の一口こそ抵抗するものの、二口目からは諦めムードで給餌を飲み下してくれていた。こんな逃げ方はしたことがない。怯えるように私を見上げ、固まっているタマを抱き上げて、もう一度、ベッドに乗せたが、またも宙を舞うように飛び出していった。もう嫌だ、絶対嫌だ……これまで思っても口にはしなかった言葉が聞こえてくるようだった。私は、給餌を諦めた。明日の朝、また食べればいい……。

翌朝、自室のドアが開く音を開きつけると、タマは一声挨拶し、カーテンの陰から私の足元にやって来た。すっきりとした表情のタマを膝に乗せ、ゴツゴツ背中を両手で包み込み、夕べ見た夢の話しをしながら、いつものように、自分で食べるための猫缶を入れた皿を鼻先に持っていくと、すぐに匂いに反応。一口、二口、三口……僅かばかりを盛った皿だが、その八分目を食べた。喜び勇んだ私は、このままの流れで強制給餌を、とタマをベッドに乗せた。結果は、前夜の再現だった。

この2回の断固たる拒絶で、私の決意も迷いも吹っ飛んだ。すべてをタマに任せよう。タマが食べたいものを食べたいだけ食べ、水も飲みたいだけ飲めば、それでいい。こんな当たり前の納得が、ここまで来て、やっとできた。
口パクが条件反射となる程のストレスを抱えながらも、これまで私に付き合ってくれたタマを思い、胸が苦しくなった。ごめんね、そしてありがとう。
私は、スープ仕立てのフードを皿に入れてタマに残し、仕事に向かった。

食べても食べなくてもいい、タマの気の向くままでいい……心底、そう思えるようになって、私は嘘のように楽になった。強制給餌を断念して救われたのは、私だったのかもしれない。強制給餌を止めることは、タマの命の撚り糸の一本を私が断ち切ることと思い、逡巡していたのだが、治癒することのない病に冒されたタマに強制給餌をすること自体、命の道程を私の手で書き替えることだったのではないか、と気づいた。いや、おそらく、最初から判っていたのだと思う。迷いなく始めた強制給餌ではあったが、その是非に対する葛藤で、私は金縛りになっていたのではないだろうか。目に見えぬ縄が、するすると解けていった。

帰宅し、一目散にタマの部屋に向かった私は、タマの爽やかな表情に驚いた。真っ白だった鼻先にも僅かに赤味が戻っていた。動きも軽快で、昨日までのスローモーションが嘘のようだ。タマは、床に座り込んだ私の膝に上り、頭をぐいぐいと押し付けて、思いっきり甘えてみせる。タマの自然な感情のほとばしりを全身で受け止めながら、強制給餌がタマに与えてきた苦しみを改めて知った。

その晩、輸液の助っ人であるお父さんが、驚きの声を上げた。
「タマの体が柔らかくなっているよ」
タマの体に一体、何が起こっているのだろう。神懸かりのような力が働いているのだろうか。このまま、すっかり快復していくのではないか、と思う程、タマに生気が戻っていた。


*輸液断念

強制給餌を続けている間は、クレメジンのカプセルの中身だけをキドナに混ぜて与えていたが、食事をタマの自由意志に任せるようになってからは、クレメジンの真っ黒な見た目も、ざらざらとした感触も、僅かな食欲をさらに減退させるようで、猫缶に混ぜることは憚られた。丸のまま飲ませようにも、かなり大きなカプセルは喉につかえそうで怖い。ここまで来たら、クレメジンもフォルテコールも止めた方が良いように思えた。

タマにしてあげられることは、もう輸液しかなかった。輸液は、私の納得の為ではなく、タマ自身が少しでも楽に暮らすための最後の拠り所だった。タマがどんなに嫌がろうと鉄の意志で続けよう、とお父さんと誓い合った。タマがどんなに嫌がろうと………そう、この時すでに、タマは以前ほど大人しく輸液を受けてくれなくなっていた。強制給餌から解放され生気を取り戻し始めたタマは、自分の気持ちを前へ前へと出すようになっていた。150ccが入るまで、お父さんの大きな手に押さえられ動かずにいたタマの我慢は、100ccで限界となり、翌日は80cc が精一杯、そのまた翌日は50ccとなった。その50cc も大暴れの度に抜ける針を刺し直し、刺し直ししての50ccだった。
お父さんと私は、タマに決して負けないと無言の確認をし合って、毎晩、輸液に臨んだ。
だが、タマの拒絶は私たちの鉄の意志を打ち砕いた。タマの気持ちを斟酌してこちらの手が緩んだ訳ではない。タマは、容赦なしの力で押さえつけるお父さんの両手を全身の力で撥ね除け、注射針を刺すことさえ叶わなくなったのだ。もう3キロを割り込んだであろう骨と皮の体に、大の男が圧倒された。それは、タマの断固たる拒否だった。有無を言わせぬ決意表明だった。
お父さんはタマが抜け出た両手をそのままに、私は注射針と消毒綿を手にしたまま、数歩離れてこちらを振り返るタマを呆然と眺めた。丸みを欠いた輪郭が光を放っているようだった。


もうこの輸液セットを使うことはない。

 

翌日、私は獣医さんに経過報告に行った。輸液だけは続けるべきであること、毎日が無理なら、週に2回、いや1回でもいい、自宅でできないようであれば、病院に連れてくるように……先生の言葉を聞きながら、心の中では首を振っていた。前回、病院に連れて行った後のタマの朦朧とした全身状態を考えると、病院での輸液も選択肢から外さざるを得なかった。
クレメジンの代わりになる錠剤はないかお尋ねし、似たような効果を期待できるサプリメントの粒状ネフガード、吐き気止めとして、ガスターとプリンペランを処方していただき、病院を後にした。

 

*GWに何が起こるか

家の中での生活にも慣れ、ストレスの原因も大方取り除かれ、タマは自分を取り戻したようだった。覚束ない足取りで水の皿の前に座り、水面の遥か上で舌を動かして、水を飲んだつもりになっていた、あの虚ろな後ろ姿はもう見えない。
治癒の見込みのない病気を抱えた者に対する真の医療とは何なのか、タマの断固とした拒否が、答えの糸口を示しているようだった。
飼い猫だったなら、ここまで強烈な意志表示はしないだろう。同じ行為に対して受けるストレスも、家のない暮らしを続けて来たタマに比べれば軽いのだろうが、それでも、少なからぬ重荷を内に溜めているに違いない。このところ、人間には Quality of Life が問われ始め、徒な延命を考え直すようになっているが、もの言えぬ動物たちに対しても、もの言えぬ動物ならば尚更、QOLを大切にしなければならないのではないか。私の足に体を擦り付けるタマを撫でながら、これまでの自分の身勝手を思った。

タマが自分らしさを取り戻したとは云え、食欲が増した訳ではない。食べる量は、朝晩合わせても小さな猫缶の3分の1程。尿毒症が口内炎を引き起こしたのか、絶えず、むにゃむにゃと口を動かしている。便秘も相変わらずで、週一回センノサイドを1錠投与して、やっとこ排便する。当然のことながら、体はさらに削り取られ、向こう側が透けて見えるのではないか、と思う程だ。
だが、タマに苦しげな様子はなかった。どんなに痩せていこうが、見守るしかない。ただ、今という時を楽に過ごしてくれることだけを願い、祈った。毎晩、タマを撫でながら上げる観音経は、三巻から五巻へ、そして七巻へと増えた。
毎夜帰宅するとすぐにタマの部屋へと駆け上がるのだが、ドアの向こうにどんな光景があるのか、ドアノブを掴んだまま一瞬怯み、無理に笑顔を作ってからドアを開ける。さっぱりした顔つきで、私を迎えに走り寄るタマを見つけて、心底安堵する毎日が続いた。もう、片手で軽々と抱き上げられる。タマがこの部屋にやって来た時、三部咲きだった梅を、二人して窓越しに眺めた。5キロ以上あったタマは、両手にずしんと重かった。ほどなく梅は満開になり、続いて八重桜、ハナミズキ……主役の変わる庭を眺めてきた。一カ月半しか経っていなかったが、もう随分長く二人三脚してきた気がする。


体が痩せ、毛もぼさぼさになったが、気分は良さそうだ。

 

これまで我が家の猫たちは、私たちの長い休みの間に亡くなっていた。ロッキーママは夏休み、らーちゃんはお正月の三が日の翌日、ゴンちゃんも夏休みだった。最期のひとときを共に過ごし、私たちがちゃんと看取れるよう、粋な計らいをしてくれていた。タマはゴールデンウィークを考えているのだろうか。それまで持ち堪えられるとは思えなかったが、穏やかに一日一日が過ぎて行った。
そして迎えた8日間のGW休暇。外出など、するつもりもなかった。タマに何があっても、しっかり受け止める覚悟はできていた。
これまで寝床にしていた衣装箱の上のケージにも、早晩、上れなくなるだろうと、メッシュでできたベッドを買い込み、床に置いた。タマは、このベッドが相当気に入ったようで、私が手招きするまでもなく、ベッドに入り、ごろんと横になった。猫たちは、こちらの期待を裏切るのが常で、キャットタワーにしろ、オモチャにしろ、さぞかし喜ぶだろうと、勇んで差し出すものには、横目でちらりと見て通り過ぎる。だから、今回のタマの好反応は予想外で、嬉しいことこの上なかった。そのベッドの横に座布団を並べ、タマを撫でながら昼寝をしたり、とできる限り多くの時間をタマと過ごすことにした。


お気に入りのメッシュのベッドで。


最悪の事態をイメージトレーニングして備えていたが、タマの様子は、逆に向かった。食べる量が徐々に増え始めたのだ。小さな猫缶の五分の一を盛っても食べ切れずにいたものが、四分の一、三分の一と増え続け、二分の一が平たいお腹に収まるようになっていった。
それにつれて、関心も外を向くようになり、私が開けたドアから頭を出して、廊下や向かいの洗面所、扉を開け放してある納戸など、一渡り眺めるようになった。私が廊下で待っていれば、そろそろと自室を出て、探検を始める。他の猫たちと鉢合わせすることもあるが、タマは怯むどころか、近寄って鼻と鼻を合わせ、匂いで相手を確認。見慣れぬ猫に匂いを嗅がれた方が、怯えて後ずさりしていく。タマは、階段さえ下りそうな気配だが、それでもドアが開いている自室を振り返り、引き返す。大事な自分の砦に、闖入者があっては大変、ということだろう。
こんなタマの想定外の変化に、私は驚くばかりだった。背中の皮膚を捻ってみれば、戻りは遅く、脱水は明らかだし、鼻や肉球の色も白っぽく、貧血も改善されてはいない。便秘も相変わらずだ。もし輸液できれば、体調はさらに良くなるだろう、と再び私の欲が頭をもたげるが、タマが嫌がることをすべて止めて、今のタマがあることを思い出し、ぐっと堪える。それにしても、一体、何がタマの食欲を復活させ、気持ちを上向かせているのだろうか。タマの体の中で何が起こっているのか、嬉しい驚きと共に頭をひねるばかりだった。

*そして今

恐れていたGWが、思い掛けない変化に終わり、さっそく病院へ報告に出掛けた。先生も、医学的には説明がつかない、と怪訝そうだが、その表情は明るかった。食後に欠かさず飲ませている胃薬と週一回投薬する便秘薬を、今回は一週間分ではなく、一カ月分処方していただいた。

GW明けから3週間、タマは、朝晩小さな猫缶一缶ずつをみるみる平らげ、腎臓療法食のドライフードも一掴み程食べている。僅かながら脇腹と太腿に厚みを感じられるようになってきた。食事が終われば、身繕いする余裕も生まれた。水はごく普通の減り方となり、腎不全特有のカブ飲みは見られない。歯槽膿漏による口臭もなぜか薄くなっている。
私の顔を見る度に所構わずゴロンと横になり、『撫でて〜』の催促。カーテンが風に揺れれば、不審者がいるのでは、とカーテンの向こう側を点検に行く。二階には、もう一匹の箱入り、エリちゃんがいるが、タマの部屋とエリちゃんの部屋のドアを同時に開けると、二匹それぞれがドアから顔を出し、まるで、アパートの住人同士が挨拶をしているような、笑える光景が見られる。

不治の病を克服してしまうのか、と思うこと度々だが、脱水も貧血も便秘も相変わらずだ。
治癒や延命を望むことなく、ただただ、その日一日、その晩一晩を、楽に過ごせることだけを祈ってきた。そして今がある。たとえ今日明日、といった差し迫った危険は遠のいたように思えても、これまでの必死の祈りを忘れてはならない。
岩のように固かった肉球が、ふんわりと柔らかくなったタマの手を握りながら、時の移ろいを噛みしめている。


我が家に来て始めて、オモチャで遊ぶようになった。

 

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