猫的生活(H23.8.20)

夏休みを8月10日の水曜日から日曜日までの5日間とするか、思い切って次の水曜日までの8日間とするか思案していた社長だったが、社員さんの鶴の一声で8日間と決まった。
昨年の夏休みは5日間で、その全てをゴンちゃんの看病と看取り、野辺送りに費やした。
あれから一年……それなりにゆとりを持って暮らして来たつもりだったが、振り返れば、日々懸命に生きて来たようにも思う。
母が生きていた間は、日頃家の中にいることの多い母へのイベント作りに、夏休みの予定はぎっしりと詰め込まれた。
今年は……何の予定も立てなかった、と言うか、予定を立てないまま夏休みを迎えた。
5時に合わせた目覚ましのアラームボタンを押さずに眠る幸せ。
起きたい時に起き、食べたい時に食べる。
和室の座卓に本を置き、のんびり文字を追いながら、時折、庭の涼やかなキキョウに目をやる。
紫と白の大株のキキョウは私を窓辺に呼び寄せ、空いた座布団からは、あっという間に猫たちの寝息が聞こえてくる。
仕方なく畳に腹這いになり、本を読み進めるうちに、私にも心地よい睡魔がやって来て、閉じた瞼に夏の陽を感じながらまどろむ、まどろむ。
時計も見ず、明日を考えることもない。
何もしない贅沢……

学生時代の夏休みも、これと云って何をした訳でもない。
時計と縁のない生活を送っていたが、それは幸せなことではなかった。
何もできない焦りばかりがつのる後味の悪い休みだった。

何もしない贅沢を味わったのは、これが初めてのこと。
まさに猫的生活そのものだった。
その深い満足を味わい、猫の猫たる所以を体感したように思うが、果たして私は猫になりきれるのだろうか。
この夏休みに終わりがあり、また目覚ましのアラームと共に始まる日々に戻らなければならない、一時限りの浮世離れした暮らしだからこそ、猫でいられたのだろうか。

私にも、いずれ仕事と離れる時がやってくる。
ON も OFFもない生活がいずれ始まる。
その時、猫になりきって、猫であることを謳歌するには、何が必要なのだろうか。

仕事は生活の糧を得る手段であり、自己実現・表現の場でもあり、人や社会との結びつきの機会を与えてくれる。
同時に、仕事は否応無しに私から時間と空間を奪っていく略奪者でもある。
それは時には苦痛だが、その実、 略奪者の剛力に凭れかかって、私は何とか立っているのではないか。
退職後の充実した生活のために趣味を持とう、と人は言う。
それは自分を支えてきた、時間と空間の剥奪者でもある仕事の後釜に、趣味を据えるということだ。
とてもリーズナブルだが、これでは猫にはなれない。
すべての束縛から離れられなければ猫にはなれない。
猫は自由そのものだ。
人が束縛の対極でしか自由を感じることができないのだとしたら、猫の自由と人の自由は似て非なるもの。

和室の座卓に私が置いていた本は、仏教書だった。
猫は生まれながらにして、『空』を知り、『空』に生き、真の自由の喜びに満ちているように見える。
真の自由を得てこそ、あるがままの自分でいられる。
『自由自在』が懐かしい参考書の名前で終わらないようになりたいものだ。

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