ゴンちゃんからの宿題(H22.8.20)

8月13日、ゴンちゃんが永眠した。
8月1日の更新時に、『スラム・ダンク、ゴンちゃん』と題して、三重苦を抱えながら健気に頑張るゴンちゃんの近況をお伝えし、危機的状況を何度も乗り越えてさせていただいた目に見えぬ力に感謝したばかりだった。
その後、食欲を徐々に失い、好物を選んで差し出しても、その場では口をつけることがなくなった。
当初は次の食事までにどうにか完食していたのだが、次第に手つかずのままになった。
ステロイド剤を隔日半錠にまで減らしていたから、血小板が減少してのことだろうと考えていた。
8月6日に再び強制給餌を始めたが、体調の落ち込みはひどく、先生と相談の結果、ステロイド剤を増やしてみたものの、9日にはほとんど動けない状態になってしまった。
それでも、10日の朝は、床に座った私の膝にのぼり、後足で立って両腕を私の首に回し、頬を擦り付けてきた。
ゴンちゃんのとっておきの甘えの仕草だ。
私はゴンちゃんの心臓と私の心臓を合わせるように、いつになく強くゴンちゃんを抱きしめ、「ママの元気をいっぱい持っていってね」と繰り返しささやいた。
その日、診察を受けると、腹水、胸水ともに溜まっていた。
身にまとっていた洋服のせいで、腹水にさえ気づけずにいたのだ。
血小板数は低下しているとは云え、症状に出るほどまでには下がっていない。原因は心臓だった。
強心剤は、目一杯服用しており、これ以上増やすことはできない。
利尿剤も減らしていたが、血清カリウムが減少していて、増やすこともできない。
唯一できることは胸水を抜くことだけだった。
一旦先生にお預けして、処置後迎えにいくと、ゴンちゃんは高酸素のケージに入っていた。
床には抜いたばかりの胸水が洗面器に入れられていた。
不気味なピンク色に濁っていた。
ゴンちゃんの今生の時間がカウントダウンに入っていることを受け入れなければならなかった。

幸い、翌日から私は夏休みに入る。
この2ヶ月、個室で闘病して来たゴンちゃんは、一日のほとんどを一人で過ごさなければならなかった。
最後のわずかな時間でも、傍にいられることが唯一の救いだった。
11日、12日……蝉の声がゴンちゃんの部屋の壁にしみていく。
立つこともままならなくなったゴンちゃんの傍で、私はずっと読経していた。
それしかできなかった。
もう何年も前のことになるが、私は夜中に突然具合が悪くなった。
救急車を呼びたかったが、それも憚られ、母に助けを求めたのだが、寝ぼけ眼の母は、私の緊急事態を理解できなかったのか、「観音経をあげなさい」と言ったきり眠ってしまった。
そんな母にあっけに取られたものの、藁をも掴む気持ちで観音経をとつとつと唱え始めた。
不思議なことに症状は徐々に和らぎ、2度目の読経の時には症状はほとんど消え、3度目を終えた直後、私は眠りに就いていた。
もちろん病気そのものが治っているわけではなく、翌日病院へ行き、薬を処方していただいたのだが、この体験は私の中に強烈に残っていた。
ゴンちゃんの残された時間が少しでも安からんと、私は観音経をあげ続けた。
だが、ゴンちゃんは、なぜかなき始める。
その声は、何かを訴えるようで、けっして安らかなものではなかった。
同じお経本にある般若心経をあげてみると、ゴンちゃんは、すうっと落ち着いて静かに横たわる。
観音経と般若心経に対するゴンちゃんの反応は、何度繰り返しても同じだった。
観音経は和訓読みをしていたので、表面的な意味は多少判るが、般若心経はちんぷんかんぷん、音でしかない。
でも、ゴンちゃんは確かに般若心経に呼応していた。

13日早朝、横になったゴンちゃんの体は、数えきれないほど速く、小波のようにうねっていた。
時折、母鳥の運んだ餌を求めるヒナのように大きく口を縦に開き、深い呼吸をする。
舌は力なく口からはみ出している。
この二日、片時も目をつぶることなく最期を迎えようとしてきたゴンちゃんの末期が、こんなにも苦しげであるのは耐え難いことだった。
先生に相談すると、「楽にしてあげてもいいのかもしれない」とのことだった。
私に迷いはなかった。
ゴンちゃんは、もう十分に頑張ってきたのだから。
キャリーに入れて、家を出る時、いつもと同じように大きな声で2回ないた。
病院の待合室でも、大きな声でないた。
私は、そっと体をさすりながら、静かに名前を呼び続けた。
「コホン、コホン」……ゴンちゃんが咳き込んだ。
それが最期の呼吸だった。
迷いはない、とは言っても、心のどこかに問いを残すであろう安楽死の注射をさせることなく、ゴンちゃんは旅立った。
看護士さんにゴンちゃんの呼吸が止まったことを告げると、待合室のいくつもの目から涙があふれた。
死亡の確認を終えた先生は、ゴンちゃんの体に手を置いて、『会いに来てくれたんだね』とつぶやいた。

これまでいくつもの命と別れ、その度に自分の気持ちの御し方を身につけてきたつもりだった。
だが、ゴンちゃんとの別れは、想像しなかった程、悲しく切なかった。
幼い頃から控えめで、感情を露にせず、決して人の前に立つことなく、争いを避けていつも一人静かに暮らしてきたゴンちゃん……その存在は、正直薄かった。
こうして逝ってしまって、ゴンちゃんの大きさに初めて気づかされた。
後から家族になった4匹は、とっくにゴンちゃんの大きさを知っていたというのに……。
4匹、特にモナちゃんは、ゴンちゃんが大好きだった。
自分から誰かに近寄ることのないゴンちゃんだったが、寄られれば快く受け入れていた。



昨年の9月に突然劇症肝炎を発症し、生死の境目を彷徨ったゴンちゃんは、約1年の歳月を闘病の中で過ごした。
その時間は、私へのプレゼントだったように思う。
とりわけこの半年は、ゴンちゃんと私の二人三脚だった。
何度も危険な状態に陥り、その度に投薬と強制給餌で命をつなげてきた。
自然に逆らい、本人の嫌がる強制給餌と投薬を続けることに疑問を持ちながら、それでも止める勇気のなかった私……
ゴンちゃんは、そんな私を赦し、苦痛を引き受けて私に時間を与えてくれたのだ。
私が納得できるまでの時間を……。

たった一人、個室で過ごした最後の2ヶ月。
ゴンちゃんはどんな思いで、壁を見ていたのだろうか。
私が家に帰るのは夜9時近かった。
門の開く音を聞いて、私を呼ぶゴンちゃんの声を窓越しに聞き、ほっと胸をなで下ろす毎日だった。
まれに早く帰れば、ゴンちゃんは大嫌いな病院へ連れて行かれた。
それでも、ゴンちゃんは、私の帰りを楽しみに待っていてくれた。
その気持ちに応えたくとも、家に戻った私には、山ほどの家事が待ち構えている。
バッグを玄関に放り出して、一目散に階段を上り、ゴンちゃんに会いに行っても、わずか数分後には、キッチンに立たなければならない。
部屋を後にする私の後ろ姿をゴンちゃんはどんな気持ちで見送っていたのだろうか。
人間時間に換算して4年もの長い苦痛を強いながら、私がしてあげられたことはあまりに少なかった。

ゴンちゃんが逝き、初めて知ったその大きさに圧倒されながら、私はゴンちゃんの生きように憧憬している自分に気づいた。
ゴンちゃんの生きようは、私と対極にあるようだった。
私は、常々自分の生きように居心地の悪さを感じていた。
幼いころから親が私に抱いたイメージは、私の中に刷り込まれ、知らず知らずそのように振る舞い、振る舞いは心の有り様も引っぱり、そんな私に級友も親と同じイメージを持ち、その連鎖の中に私は取り込まれてきた。
親を見送り、級友とも離れ、今は少しずつ居心地の良い自分自身に近づいているのかもしれないが、長年続けた振る舞いは、身に随分としみ込み、容易には抜けていかない。
ゴンちゃんは、私の本来の自分への回帰を促しているように思える。
これまで存在すら知らなかった扉の向こうの、薄黄色の溢れる光の中にこちらを向いて立ち、私が扉をくぐるのを待っているゴンちゃんの輝く輪郭が、頭から離れない。
ゴンちゃんが呼応した般若心経に、道しるべがあるのではないか。
今、私は渇いたように、手当たり次第に書物を読みふけっている。
それは、ゴンちゃんが私に課した宿題の最初のページなのだろう。
ゴンちゃんは私をどこに連れていってくれるのだろうか。

 

 

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