トンちゃん危機!!(H.20.6.22)

居場所がない……という感覚は、何にも増して辛い。自分が心から受け入れられていないのではないか、空間を共有する人のお荷物になっているのではないか、という疑心暗鬼は、人を落ち着かなくさせ、ほっと寛げる場所を奪っていく。一人で暮らしてみても、その生活自体が表層的に感じられれば、同じ感覚を抱く。このように、人間の『居場所がない』は、極めて精神的なものである。対して、猫の場合、『居場所がない』は、物理的な比重が重くなる。猫にとっても『居場所』は、安心して過せる場所であることに変わりはないが、それは敵の縄張りの外であり、危害の及ばないところ、という物理的な空間をも意味する。居場所を失った猫は、常に敵の鋭い視線に曝され、争いに発展しないまでも、身に迫る危険を少しでも早く察知するためにおちおち眠ることも叶わない。過度の緊張は、猫の精神的バランスを失わせ、体を消耗させる。そんな危機に、今、トンちゃんが陥っている。

茶トラ白でレクサス尻尾のトンちゃんは、滑らかな皮毛の下にサラブレッドの太もものような筋肉をつけた猫で、運動能力に恵まれている。トンちゃんと対等に追いかけっこをできるのは、エリちゃんぐらいで、幼いころは良く2匹で駆け回っていた。面立ちはカンガルーに似て、黒目がちのまん丸い目は、8歳にして仔猫のまま、物事を考えたことなど一度もない、と語っている。寝付きが悪く、一人では眠れず、眠くなると「うぇー、うぇー」と美しくも可愛くもない声で泣きながら、添い寝してくれるぬーちゃんを探す。人間大好きの甘えん坊で、今でこそ、クーちゃんという相棒ができたが、これまで兄弟はおろか、新入りの仔猫たちの面倒など見たこともない。成猫でやってきたチビタやらーちゃんには怯え、相手が危害を加えないと分かると、すれ違い様に猫パンチを繰り出す。だが、そのパンチもほとんど反射的なもので、悪気や心に溜め込んだものなど微塵も感じられない。トンちゃんは、黄色い帽子に、ランドセル、裸足に運動靴という出で立ちで、近所の柿の木に登り、大きな実を一つ失敬して、背中に「こらーっ!!」という声を聞きながら、一目散に逃げる、そんな姿が一番似合う、万年小学一年生なのだ。

実に愛すべき存在なのだが、トンちゃんの意味も無く繰り出された猫パンチを受けたチビタやらーちゃんの生傷は絶えず、報復せずにじっと堪えた心には、悔しさが澱となって積もっていったことだろう。

トンちゃんと最初に諍いを始めたのは、エリちゃんだ。少女から美女へと成長したエリちゃんは、お父さんに心を寄せ、他の猫たちとは距離を置いて一人を楽しむようになった。そんな変化にまるで気づかないトンちゃんは、相変わらず鬼ごっこを仕掛けるが、返ってくるのは、「シャーッ!」という威嚇だけ。そんなのおかまい無しのトンちゃんが更に近寄ると、エリちゃんはパンチを一つお見舞いして、冷蔵庫の上や茶箪笥の上に駆け上がり、恐ろしい形相で睨み付ける。これが繰り返される内に、エリちゃんは、カバーの掛かった椅子の下で、トンちゃんを待ち伏せするようになった。何も気づかずに通り過ぎようとするトンちゃんに、「ギャアーッ!!」と叫びながら飛びかかる。その声に、最初はこちらも騙された。トンちゃんは濡れ衣を着せられること度々。真相を知ってからは、トンちゃんに警戒信号を出すようにしたのだが、当の本人は、そんな不意打ちも気にするわけでなく、エリちゃんを見ては一騒動起こし続けている。

これだけなら、危機でも何でもないのだが、加えてトンちゃんに宣戦布告してきたのがゴンちゃんだ。ゴンちゃんは、6匹兄妹の中で一人丸顔、鹿のような尻尾と長い後足を持つ。皮毛も僅かに長目で、ゴンちゃんだけ父親が違うかも、と思う程、他の5匹と異質な感じがする。立派な体躯に似合わない甲高い声も5匹とは大きく異なる。気が弱く、控え目で、いつも和室のタンスの上で暮し、居間に顔を見せることも稀だった。ワクチン接種に連れて行こうと思えば、まるで虐待されているような声で叫び続け、このままでは卒倒死してしまう、とワクチンも諦める始末。

いつも静かに一人で過していたゴンちゃんに変化が現れたのは、モナコの出現かもしれない。タンスの上に上がったモナコを憎からず思うようになったゴンちゃんは、だんだんと下に下りて来るようになり、二匹がバスケットで添い寝する姿を見かけるようになった。それがきったけだったのか、或は一人でいた時から周囲の状況は把握していたのか、ゴンちゃんは、らーちゃんに気遣いを示すようになった。傍で見ていて、らーちゃんが虐げられているのが不憫でならなかったのだろう。らーちゃんと出会えば、頭を擦り付けるようにして並んで歩き、居間の扉の向こうにらーちゃんの影を見れば、開けてやってくれと鳴く。そんなゴンちゃんの目に余ることが起きたのだろうか、ある日、ゴンちゃんはらーちゃんの宿敵、トンちゃんに攻撃を仕掛けた。闘いなど、まるで縁の無かったゴンちゃんだが、あっという間にトンちゃんを蹴散らした。「なあんだ、相手を負かすのって、こんなに簡単なんだ。ぼくって強いんだ!」と思ったに違いない、以来ゴンちゃんは、おそろしく好戦的になった。何もしていないトンちゃんに掛かっていくは、遠くから睨みを利かせるは、待ち伏せるは……手がつけられない。トンちゃんは、運動能力は優れていても、ケンカに強いわけではない。おそらくケンカをする理由さえ思いつかないのだろう。方や思い込んだらトコトンのゴンちゃんだ。逃げるしかない。

だが、どこへ?ゴンちゃんは、自分が強いことを自覚してからというもの、積極性も増し、一日の半分を居間で過すようになった。和室と居間を縄張りにされては、一階にトンちゃんが安心して過せる空間はない。Neco家は、すべての部屋が出入り自由となっているが、それでも、主に過す場所によって、一階族と二階族に大別される。トンちゃんはまぎれも無く一階族だった。一階を追われてしまったからと言って、すぐさま二階に居場所を移すこともできない。二階には二階族がいるからだ。もともと涙が戻る腺が詰まっていて、目の下に涙焼けを作っているトンちゃんだが、このところ、その両目はいつも涙が溢れそうになっている。居場所がないのだ。今朝、トンちゃんは、二階の南側の部屋に並べられているキャットベッドの一つに、身を横たえていた。そっと覗くと、目を開き、私の目をじっと見つめて、声にならない声で窮状を必死に訴えた。

ゲージの設置や北側の部屋への隔離など、いくつかの考えが浮かんでは消えた。12匹の閉じた猫社会の中で、これからトンちゃんが、どのように身を処していくか、見守る余裕はまだ残されている。動物の知恵をしっかり受け止めたいと思っている。