道行く者の楽しみ(H.17.4.28)

春うららの陽射しを浴びて、新緑の緑、ハナミズキのピンク、丹精して育てた鉢植えのパンジーの黄色や紫、深紅が一段と彩度を増して目に飛び込んでくる。出勤の車が大通りに出るまでのわずかな道のり、私は助手席の窓に鼻をつけるようにして、色の供宴を眺める。一年で一番色彩に溢れる時、ほんとうに短い至福の時。

いつ頃からいるのだろうか、お花で溢れるお宅の塀の上に、猫が5匹思い思いのポーズで座っている。猫、と云っても生きた猫ではない。粘土で作った動かない猫たちだ。だが、その表情には、春の陽を満喫した、「し・あ・わ・せ」が滲み出ている。ほんの一瞬、車の中から遠目に見るだけだが、5匹の猫たちは、毎朝私に「し・あ・わ・せ」のお裾分けをしてくれる。家の人が作ったのだろうか。いいなあ、私もあんな猫を作ってみようかな、塀にずらりと並べたらどんなだろう……あっ、そうか、塀一杯に並べたら、生きた猫たちが歩けなくなっちゃう……などと、うっとりしながら思い巡らしていた。

昨日は仕事が休みだった。私は、カメラを持って、動かない5匹に会いに出かけた。ちょうど、奥さんがたくさんの鉢植えにお水をあげているところだった。
「こんにちは。わたし、毎朝、この道を通っているんですが、きれいなお花とこの猫ちゃんたちを存分に楽しませていただいてます」
突然見知らぬ人に話し掛けられ、怪訝そうだった奥さんの表情が緩んだ。
「この猫ちゃんたち、お作りになったんですか?」
「いいえ、おおきな園芸屋さんに置いてあったので、思わず買ってきたんですよ。うちには、猫が2匹いるの」
「そうですか。うちにもたーくさんいるんですよ」
愛猫家同士の心の塀は、この会話ですっかり取り払われ、話に弾みがつく。私は塀の上の猫をなでながら、話を続けた。
「それにしても、一年中、お花が途切れることがないですよね。お手入れが大変でしょう?」
「ううん、いい加減にやってるの。今はパンジーだけど、パンジーは一番簡単なのよ。」
「そうですか。猫ちゃんたち、お花を荒らしません?」
「うちには、ノラちゃんもやって来るのよ。ご飯をあげてるから。でも花を痛めたりしないわよ。猫が好きなキャットニップのようなハーブは倒れていることもあるけれど、別にかまわないし……」
ショートカットの似合う小柄な奥さんは、さばさばと受け答えしてくれる。乱れのない、満開の花は、この人の鷹揚な心が咲かせているのだ。

ふと、20年も前の友人の言葉が思い出された。彼女は洋裁が得意で、コートも自分で仕立ててしまう。彼女曰く、仕立ては、いい加減でいいのだと。洋裁の先生の受け売りだそうだが、きっちり、かっちり、仕立てた服は、かえって体に馴染まず、着心地が悪いのだとか。

いい加減、と言っても、平板読みの『イイカゲン』ではない。『 い+加減』だ。そもそも『いい加減』の語源は『 い+加減』なのだろう。そこにはネガティブな意味はなかったに違いない。それがいつしか『イイカゲン』とネガティブに使われるようになる一方で、その反対語とも言える『きっちり』と線引きすることが良しとされるようになってきたのではないだろうか。そして『 い+加減』が本来内に持っていた『ゆとり』を失ってきたような気がする。仕立ても、近所付き合いも、『 い+加減』でなければ、息苦しくなるばかりだろうし、ガーデニングも子育ても、行き詰まるに違いない。『 い+加減』は、あるいは現代のキーワードなのかもしれない。

奥さんの了解をいただいて、5匹の猫たちと『 い+加減』が咲かせた見事なお花をカメラに収め、お礼を述べてその場を去った。

以前、『あの街この町にゃんこ待ち』のコーナーで紹介した荻窪八幡は、そのお宅からわずかの距離だ。神社の猫に会えるかもしれない、と足を延ばした。きれいに掃き清められた境内にたたずみ、思わず深呼吸する。ほんの20m北側には、青梅街道が走っているのに、ここは別天地。氏子として、自慢の神社だ。参道の脇に設えられたベンチで、ガスの検針員の女性が、お弁当を食べている。

今日は、猫は出て来てくれないのかな……ぐるり見回すと、いた、一匹。石造りのベンチの上に。いた、と云っても、この猫も動かない猫。石でできた猫だ。ベンチの端に座り、何か問いたげな表情で、そっとこちらを見上げている。ここを訪れる時のこちらの心模様で、この猫のまん丸の目は違った問いかけをしてくるのだろう。それにしても、いつからこの子はここにいるのだろう。隣に座り、この猫としばし語り合う、そんな時間が持てたらどんなにいいだろう。この神社に訪ねる楽しみが、また一つ増えた。

 

ガーデニングも、塀に載せた粘土の猫も、ベンチに座る石の猫も、作り、飾った者の道楽かもしれないが、この道楽は、 行く人を しませ、道楽の二重奏を奏でているようだ。