禁断の10センチ (H14.7.11) 7月7日の夜も翌8日の朝も『キャラリン』は姿を見せずじまいだった。このままでは、どんどん衰弱してしまう。本当に何とかしなくては…。 翌9日、『キャラリン』は照りつける太陽を避けるように、Neco家の車の下にうずくまっていた。左に寄せて停めてある車の左後輪の内側という場所は、絶対に手の届かない絶妙なポジションだった。腹這いになって、覗き込んだ『キャラリン』の顔からは、生気が失われていた。若草色と水色の色違いの両目には半分膜がかかり、黒ずんだ目やにが鼻に沿ってへばりついている。鼻は鼻水で汚れ、口からはよだれが帯びを引いている。手の平を上に向けて、地面に沿うようにそーっと手を伸ばす。『キャラリン』は、指の匂いを嗅ぐように、静かに鼻を近づけてくる。もう3センチ、そーっと手を伸ばす。「ハーッ」。逃げはしないものの、これ以上近寄ることはまかりならぬ、と断固拒絶の姿勢。だが、今回だけは引き下がることはできなかった。何としてでもラブリー先生のもとに連れていかなくては。もう『キャラリン』に時間はなかった。私にはそう思えた。 『キャラリン』を車の下から追い出して、捕まえるには助けが必要だった。ぱぱちゃんに手伝ってくれるように頼んだ。ぱぱちゃんは「その時が来れば、自分から来るよ。『らーちゃん』だって『隣の宮沢さん』だってそうだったじゃないか」と言い残して出掛けてしまった。私は、大きなバスタオルと棒を用意して、おばあちゃんの帰りを待った。おばあちゃんに棒で車の前の方から『キャラリン』を追ってもらい、後ろから出てきたところにタオルを被せる、という段取りだった。予定通り、『キャラリン』は車の後方から這い出してきた。物凄い勢いで走り出てきたわけではない。あせらず、騒がず、ほんの小走り程度で、私の目の前を通りすぎた。スローモーションを見ているようだった。私は、大判のタオルを両手に広げ、ただ呆然と見送ってしまった。タオルが枷になった。 2階のベランダから『キャラリン』の姿を探す。西側のお隣の庭に逃げこんだところで座っていた。おばあちゃんが「さあ、ご飯食べましょ。ほら、おいしいよ」と、お皿を差し出している。もとより食欲のない『キャラリン』には効き目がなかった。その場で身じろぎもせず、座り続けている。しばらく眺めていると、一匹の大きな蠅が『キャラリン』の背をかすめた。それに驚いた『キャラリン』は、お隣とNeco家の境のフェンスの淵に移動した。そこなら捕まえられる。 「『キャラリン』、ねえ、お医者さんに行こう。先生にお口を治していただこう、ね。それからお風呂にも入って、きれいになろう。『キャラリン』は美人なんだもん、お風呂に入ったら、すっごく素敵になるよ、ね」フェンスのこちら側にかがみこんで、向こう側の『キャラリン』にひたすら話しかける。『キャラリン』はときどき、いかにも話を聞いているというような素振りで私の目を覗き込むが、次の瞬間、視線は真直ぐ前に向けられる。体中に警戒のアンテナが張り巡らされているようだ。いつもの要領で、そーっと手を伸ばす。今度も鼻を寄せてくる。焦ってはダメ。自分に言い聞かせながら、静かに優しく話しかけ続ける。もう少し先まで手を伸ばしてみる。「ハーッ」。いつもの威嚇。それでも、『キャラリン』は逃げない。笑みを絶やさず、穏やかに話し続ける。時間が止まっているような錯角に襲われながら、話し続ける。その瞬間を見極めながら。はじめて恐怖心が走る。猫に対して抱くはじめての恐怖心。どうしても縮めることのできない10センチを強引に突き破ることへの恐怖心。『キャラリン』に対する恐怖心。その間も私は話しかけ続けた。一体何を話していたのだろう。お医者さんに行こうね、と念仏のように唱えていたのかもしれない。そして、何の合図もきっかけもないまま、突然『キャラリン』の体に手を伸ばした。迷わず、10センチの溝を突き破った。 体に触れるか触れないかの瞬間、異変を察知した『キャラリン』はすでに逃げる体勢を整えていた。私は、かろうじて後足の一本にしがみついた。『キャラリン』は瞬時に身をひねり、口を左右に大きく開き剥き出しになった鋭い犬歯を私の腕に突き立てた。私は怯むことなく、腕を噛ませたまま、前足を捕まえた。『キャラリン』は足をふりほどこうと身をくねらせる。身をくねらせては所かまわず犬歯を突き立て続ける。『キャラリン』の足を掴む私の手はゆるまない。何とかして『キャラリン』を引き上げ、フェンスのこちら側に連れ込まなければならない。だが、必死で身をくねらせ、腕を、手を、指を噛み続ける『キャラリン』の足を離さずにいるのが精一杯だ。一体どれだけの時間が経ったのだろう。5秒なのか、30秒なのか、1分なのか。うなり声も威嚇の声もない全くの静寂の中で、赤黒い血の雫が立て続けに地面を濡らした。私は『キャラリン』の目から視線をそらさない。『キャラリン』が、ふと、私の腕から顔を上げた。そして、大きく口を開き、はじめて威嚇の声を発した。その口元は真っ赤に血塗られ、剥き出しの白い歯の一本一本が血に染まっていた。まさにワイルド・キャットそのものだった。私は我を忘れて見とれた。雄々しく、美しく、神々しかった。そして、なぜか、私は必死に握りしめ続けた『キャラリン』の足を放した。凛とした野生の前に、私の独りよがりはあまりにちっぽけだった。 音なき格闘の異様な気配に気づいたおばあちゃんが、いつの間にか私の隣に立っていた。ようやく我に返った私は、不毛な争いの跡を刻んだ腕をはじめて眺めた。両手、両腕から数え切れない血の帯びが伸びていた。よほどの興奮状態にあったのか、勢い良く流れる水道の水にかざした両手は、ぶるぶると震えていた。 お医者様の待合室。治療を受けるのは私ではなく『キャラリン』だったはずなのに、と思いながら順番を待つ。私は、『キャラリン』をお医者様に連れて行くこともできず、それよりも何よりも、10センチにまで縮まった二人の溝を無限大に広げてしまった。ぎりぎりの状態になったら、その10センチの溝を越えて、身を委ねてくれたかもしれない。その可能性すら摘んでしまった。『キャラリン』が身を置くことのできる数少ない場所、もしかしたら一番安心できる場所も取り上げてしまった。なぜ私は待てなかったのだろう、『キャラリン』が救いを求めるのを。私には『キャラリン』が救いを求めるとは思えなかった。弱っていく『キャラリン』をただ見ていることが辛かった。先程の格闘は、本当に『キャラリン』のために仕掛けたのだろうか?私の逃避のための格闘だったのかもしれない。 |