静かな夜 (H14.4.22)

心を通いあわせることで、いつ終わるともしれない叫び声と8の字歩行が治まるのではないかと思われた『隣の宮沢さん』だが、一晩の小休憩をしただけで、結局、例の奇行は質量ともにエスカレートする一方。部屋を共にする『らーちゃん』『エリちゃん』、そしてNeco夫婦も憔悴しきってしまった。本人もわずかしか睡眠をとらない日々に、順調な体重の回復も止まってしまっている。やはりこれは尋常ではない。事故による影響だろうか、何かしらのトラウマだろうか。屋外に出たいのかと思い、ハーネスを付けて散歩にチャレンジしてもみた。ドアを出るまでは順調に歩いていたのだが、一歩外に踏み出すや、とんでもないパニックになった。尻込みして歩かないとか、隅っこに逃げようとするなどの騒ぎではなく、ハーネスを切らんばかりの暴れよう。体中血だらけになりながら暴れる『隣の宮沢さん』をやっと捕り抑え、家に戻った。
なす術なし。再びラブリーの先生に相談することにした。

先生にお預けした2晩は実に静かに過ごした『隣の宮沢さん』の奇行を、先生もにわかには信じ難いようだったが、2度目の相談だっただけに、安定剤を処方してくださることになった。そして、個室を用意するようにとのこと。暖かくなってきてから、ファイトが再び利用するようになっていたお外の特別室が室内に持ち込まれた。(ファイトの大切なくつろぎの空間を奪うことになってしまって、ゴメンネ。)特別室つまり大型犬用トラベルキャリーには、トイレも用意した。遠赤外線のあったか不思議マットとフリースの毛布も敷いて、少々狭いがすてきな個室が出来上がった。安定剤をさっそく粉にしてミルクにまぜる。『隣の宮沢さん』はいつも通りペロリと平らげた。そして個室へ。しばらくは「開けろ〜、出せ〜」が続いたが、その声にいつものドスはなく、音量も控えめ。いつしか、眠りについた。眠り続けた。

夜のミルクの時間になって個室のドアを開けると、おもむろに起き上がり個室を出て、狭いとばかりに伸びをし、大あくびをしていたが、それでも大好きなミルクには素早く反応。またも安定剤入りのミルクをペロリと平らげた。そんな姿を眺めながら、ふと耳を触ってみると、冷たい。いままで耳が冷たかったためしがなく、気にしながらもそのままにしていた。今にして思うとやはり熱があったのかもしれない。異常な興奮がそうさせたのかもしれないが、気付いた時に先生に相談すれば良かったと悔やまれる。ゴメンネ。

しばらくそのまま様子を見ていたが、動きは落ち着いている。それでも、30分ほど経つと泣き始めた。これまでのような極端な叫び声ではないが、泣き止む気配もなく、泣き続けることで再び気持ちをエスカレートさせてはいけないと、個室に戻す。個室に入れるときは抵抗するし、どう見ても個室が好きとは思えないが、ここは先生の言い付けを守るべし。「出せ〜、開けろ〜」の声を、心を鬼にして聞き続けた。だが、10分もしない内に個室も部屋も静まりかえる。こんなに静かだったんだ〜。この1ヶ月間、夜通し叫び声を聞かされていた耳には、信じられないような静けさだった。「静かだね。『らーちゃん』も大変だったよね、ごめんね。」そう言いながら、久しぶりに『らーちゃん』を膝に乗せ、ゆっくり撫でていると、この夜の静寂と平和が、『隣の宮沢さん』の飲む安定剤と引き換えのように思えて、またも胸が痛む。以前、8の字歩行と雄叫びの真っ最中に小さなトラベルキャリーに入れたことがあった。逆効果だった。『隣の宮沢さん』はますます苛立ち、大声で叫びながら、扉をゆすり続けた。安定剤あっての個室なのだ。でも、いつまで安定剤を飲むのだろう?副作用はないのだろうか?ないわけない!個室だって喜んで入っているわけでなし、個室に入れっぱなしでは、運動不足になる。いいわけない!

翌朝は「お腹すいた〜、出せ〜、ミルクだ〜」という『隣の宮沢さん』の声に、「ご飯まだ〜」という『らーちゃん』の声が重なり、その美しいとはいえないハーモニーで起こされた。『隣の宮沢さん』の声はボリューム控えめだが、昨日のような精気のない声ではなく、ほっとする。そして時計を見て、げんなり。まだまだ夜が明けたばかりじゃない!それでも起き出して、ミルクとご飯を用意する。階段を上る足音に、2人してドアの前で待機する姿はいままで通り。また、ほっとする。ご飯をがっつくのもいままで通り。またまた、ほっとする。
食事が終わっても個室から出したままにしておいたが、しばらくすると8の字歩行が始まった。いけない、いけない。個室に戻す。2、3回扉をガリガリやっていたが、すぐに静かになった。覗いて見ると、のんびり毛繕いなどしている。『隣の宮沢さん』にゆったりとした時が流れている。あの8の字歩行のメトロノームで刻むような足音、その速さからは想像もできないような、穏やかな、伸びやかな時が流れている。今まで一番辛かったのは、やはり本人なんだと改めて知らされる。
『隣の宮沢さん』は決して個室を好んではいない。それでも個室に入ると不安が取り除かれるのか、落ち着くようだ。本人が望まないものは、本人にとって良くないものと決め込んでいたのだが、そうではないらしい。本人が気付いていないだけなのかもしれない。もちろん、さっき飲んだ薬の効果もあってのことだろうが。

朝起きは三文の徳。猫の神経症についての記述はないかと、「猫の病気百科」をめくる。残念ながら『隣の宮沢さん』の症状に当てはまるものがない。薬についても名称も製薬メーカーもわからず、調べようがない。その薬を飲んでどうなのか、楽になったのか、それともどこかに不調があるのか、物言わぬ猫だからこそ、処方された薬について知りたいと思う。

その日、『隣の宮沢さん』は日中、個室を出て過ごした。目覚めている時ものんびり絨毯の上で体を伸ばしていた。安定剤と個室は、「8の字歩行&叫ぶこと」を忘れさせる為の一時的な手段として有効なのかもしれない。安定剤は10日分処方されている。この期間が明け、薬がなくなった時、どうなるだろうか。個室だけで問題が解決されるようになっていることをひたすら祈るしかない。