隣の宮沢さん (H14.3.20)

手負いの黒猫ちゃんに名前が付いた。名付け親はぱぱちゃん。その名は『隣の宮沢さん』だ。見える方の右目が『宮沢さん』を思わせるものがあると言う。そう言われればそうかもしれないと、反対もなく無事命名。事務所で一晩を過ごした『隣の宮沢さん』は、資源ゴミとなる使用済みのコピー用紙を入れておく箱におしっこを、新聞の折込み広告を入れておく箱にウンチをしていた。ラブリーの先生からいただいた猫用ミルクをあげると「ぼくが欲しかったのはこれ。これだよ」と言わんばかりの勢いで、おいしそうに飲み干した。猫缶も昨日よりずっと上手に口に収まるようになったが、それでも気が遠くなりそうなほど時間がかかる。

事務所に2晩泊まって、いよいよラブリー動物病院に行くことになった朝、トラベルキャリーを運んできた私を見つけて、一足先に事務所に来ていた社員さんが走り寄ってきた。「いないんです。猫ちゃん」。社員総出の猫探しが始まった。掃除の時に開けたドアから出て行ってしまったのかもしれない。階下のお店には体重10Lを誇る猫を飼っている人がいる。その人まで巻込んでの高円寺猫探しとなった。「お腹が空けばまた必ず戻って来るよ」というぱぱちゃんの言葉に頷きながら、事務所をもう一度探し、ふとずらしたキッチンのゴミ箱の裏側の隅っこに『隣の宮沢さん』はいた。真っ黒な体は光りの入らない闇と解け合って、一つだけの目が存在を伝えていた。

初めて車に乗り、初めて動物病院に行った。先生が丹念に診てくださったのは、歯と顎。犬歯はなく、上顎の歯はすべて内側に倒れている。ほとんど歯のない下顎は大きく右にずれ、上顎と噛み合うことがない。顎の関節はグラグラだそうだ。これでは固形物は食べられない。鼻は骨折しているようで、慢性の鼻炎を起こしているという。左目は全く手の打ちようがない。網膜に角膜が癒着してしまったのだそうだ。何でこんなことになったのか、交通事故か、何かに挟まれたのか。かなり前の事故だったようで、痛みはもうないようだ。本当に、本当によく生きていた。一人で、たった一人で痛みと闘い、不自由な体で今にも切れそうな命の糸に必死でしがみついていたのだ。寄生虫の検査に便をとろうとしたが、便が全くないという。改めて胸が詰まる思いがした。体力が回復すれば地域猫として生きていくこともできるだろうと先生はおっしゃるが、家の中にすでに9匹をかかえる我が家の状況を知るが故の言葉に聞こえて、頭の中はすでに『隣の宮沢さん』の部屋割りで一杯になる。長い入院になるかもしれないと覚悟していたが、目薬と飲み薬と病院食をいただいて帰れることになった。「ところで、お名前は?」と先生に聞かれ、一瞬の沈黙のあと小さな声で名前を告げると、先生もカルテに向かいながら、小さく吹き出した。急に気持ちが明るくなった。

いつもなら真っ先にお風呂に入れるところだが、骨も皮も削って生きてきたような体に負担はかけられないと、臭い体をそのままに、壊れ物を触るように扱っていた。お風呂に入れても大丈夫という先生の御墨付きをいただき、我が家に到着するなり洗面所に直行。それでも、我が家の1階の住人7匹は、わずか玄関から2mの移動の間に嗅ぎ慣れない臭いを察知したのか、洗面所のドアの前に一列に整列している。いつもなら、ぷっと吹き出すような後ろ姿だが、『隣の宮沢さん』の居場所を考えると気が重くなる。

『隣の宮沢さん』はお風呂はあまり好きではないらしく、お風呂入れには熟練しているはずの私の二の腕にあっという間に真っ赤な血の帯が二本できた。『隣の宮沢さん』も初めて鳴いた。いい匂いに包まれた『隣の宮沢さん』はおばあちゃんの腕に抱かれて2階に直行。温風ヒーターの前で体を乾かす黒い猫に、『エリちゃん』も『らーちゃん』も興味津々。それでも耳を平らにするわけではない。『隣の宮沢さん』が警戒する様子がないからだろうか。すっかりきれいになった『隣の宮沢さん』。これで晴れてみんなと御対面できる。

『隣の宮沢さん』の前には2種類のお薬をまぶした病院食のお皿とお水が並べられた。その薬まみれの病院食の中に、『隣の宮沢さん』は顔の左半分をつっこんだ。いつもと変わらぬ勢いで必死で舌を伸ばす。薬をちょっとでも入れようものなら、ぷいっと顔を背ける我が家の面々を思うと、この子がしがみついていた命の糸の細さにまたも胸が詰まる。妙な姿で食べ物と格闘する真っ黒い猫を、『エリちゃん』と『らーちゃん』は遠巻きに見ている。一杯食べて元気になろうね。

専用のトイレも用意された。『てっちゃん』が使っていたトイレだ。トラベルキャリーから出てこようとしない『隣の宮沢さん』を抱き上げてトイレに入れ、前足を持って砂を2回、3回掘ってみせる。『隣の宮沢さん』は特に関心を示すでもなく、一旦トイレから出て、ゆっくり辺りを一回り。それからトイレに近づき、前足だけをトイレに入れて、2回、3回砂を掘る。「うまくいくかも!」私の期待に応えるように、トイレに入った『隣の宮沢さん』は、無事初トイレに成功した。我慢していたおしっこをして、ほっとしたのか、トラベルキャリーのお部屋に戻った『隣の宮沢さん』は眠り始めた。トラベルキャリーの扉を閉めて、私は会社に戻った。

「どうしてるかな?」…『隣の宮沢さん』はトラベルキャリーの中にじっと座って私たちを迎えてくれた。隣の6帖との引き戸を閉めて、トラベルキャリーの扉を開ける。隣の部屋に出された『エリちゃん』と『らーちゃん』は引き戸の向こうが気になって仕方がない。引き戸を静かに開けて隙間から顔を出したのは『エリちゃん』。そのすぐ後に『らーちゃん』が控えている。二人は抜き足差し足、体を低くして『隣の宮沢さん』に近づく。双方とも威嚇するでもなく、怯えるでもなく。二人は勇気を出して『隣の宮沢さん』に鼻を寄せると、隣の6帖に戻っていった。まだまだ油断はできないが、もしかしたらこの3人は折り合いがつくかもしれない。「エリちゃん、お姉さんなんだから、面倒を見てあげてね」「らーちゃん、子分ができたよ」…それにしても『隣の宮沢さん』は何歳なんだろう。『エリちゃん』と同じくらいかもしれない。神経の細い『らーちゃん』をいつもの倍もしっかり抱き、いつもの倍も丁寧にグルーミングする。何とか3人で仲良く暮らせるように祈りながら。