ノラちゃんがやって来た (H14.3.16)

出掛けようと事務所のドアを開けた社員が押し殺した声で私を呼んでいる。静かに素早くそばに行き、視線の先を辿ると、階段にノラちゃんが座っている。全身真っ黒、尻尾のまっすぐな雄猫だ。ケンカでやられたのか、つぶれた左目も必死で見開いている。近づくと『ハーッ』と一吹き、逃げ出した。だが、何を思ったのか、階段を駆け下り外に走り出る代わりに、階段を上っていく。この階段は3階で行き止まり。何とかつかまりそうだ。足音を忍ばせて上ってみるとロックされた英会話学校の扉の前で逃げ場を失い立ち往生している。半ば捕まえて欲しいと思っているのか、抵抗する素振りを見せながらも、次の瞬間、私の腕の中に収まった。何という軽さ。何というゴツゴツ。

事務所に戻り、机の下にお誂え向きに置いてあったコピー用紙の箱に入れると、そのままじっとしている。またも猫缶を求めてスーパーに走った。ノラちゃんは怯えるでもなく、入れた時のまま箱の中に収まっている。2年前、ロッキーママ用だったお皿に、一缶開けて箱の中に入れる。ノラちゃんはただ私の顔を眺めるばかりで、お皿に反応しない。御飯が目の前にあることに気づきもしないという様子だ。見えないのか、匂いもわからないのか。でも、あれだけ走れるのだから片目は見えるだろうに…。猫缶を一つまみ手に取って鼻先にもっていくと、ふいに我に返ったように、お皿に首を伸ばした。何日振りの御飯なのだろう。脇目もふらず食べようとするが、一向に食べ物が口に入らない。食べ方を忘れてしまったのだろうか。首を傾けて舌を伸ばす。つぶれた目まで食べ物に突っ込んでいるような具合で、食べ物は押されてお皿から飛び出すばかり。こぼれた食べ物をお皿に戻しながら、よーく口元を見ると、右の下の歯がなく、あごまで変形してしまっている。小さな猫缶一つ食べるのに一時間。これでは運良く食べ物に巡り会えても、敵だらけの路上では食べ物が胃袋に収まるチャンスはまずなかったろう。ガリガリ、ゴツゴツも頷ける。

箱から抱き上げて、猫缶の汁にビジョビジョになった顔をタオルで拭く。抵抗することなく、されるがままになっているが、視線だけは私の顔から外さない。つぶれていない右目はきれいに澄み、その目から放たれる光はあわれを誘う体からは想像もできないほど力強い。もう、我が家は満員。この子が住む場所はない。家の外も、今や5匹となった外猫とのつばぜり合いとなってしまうだろう。この体ではそれを生き抜けない。かつてロッキーママが日参し、ラッキーがたった一度姿を見せた事務所のバルコニーをこの子の住処とするしかないだろう。バルコニーの軒下に、これまたお誂え向きの衝立てが立て掛けてある。その隙間なら雨風も十分にしのげる。冷たい冬ももう終わりだ。思い出したように北風が吹いても壁がこの子を守ってくれる。

箱を抱えて、衝立ての隙間に移した。ノラちゃんは安心しきった様子で箱に収まったままだ。10分ごとに様子を見に出る。いつしかノラちゃんは深い眠りについていた。名前を考えなくちゃ。