わたしは何もできないの? (H14.2.4)

あの食いしん坊の『クロちゃん』が、丸一日姿を見せなかった。定位置に置かれたご飯も手付かずのままだ。今回は『お友だち』と争った気配はない。声をひそめて名前を呼びながら、夜の闇を分けるように辺りを探すが、カサッという物音一つしない。いやな想像をかき消すように、「別宅を見つけたのかも」と妙に明るい口調で言ってみても、だれの耳にも、自分の心にも届かない。

翌日の夕暮れ、玄関を出たおばあちゃんを呼びとめる声がした。玄関脇に置いてある『お外の特別室』からその声は聞こえる。ちゃっかり者の『クロちゃん』は、『お外の特別室』の贔屓客だが、人の足音を聞けば必ず体を丸めて逃げるふりをしてみせていた。ところが、今回は足音の主に中から声を掛けているのだ。覗いてみると、口の周りを膿だらけにした『クロちゃん』がいた。おばあちゃんは、手際よくお湯とタオルと薬を用意して『クロちゃん』のところに戻った。いつになく過敏になっている『クロちゃん』は、その尋常でない気配に怯え、逃げるふりではなく、本当に逃げていった。戻ってきたら食べるようにと『お外の特別室』にご飯を入れておいたが、またも手付かずのままとなった。

次の日も『クロちゃん』のご飯は手付かずのまま、そこにあった。いつになく暖かい大寒だが、皮肉にもこの日は雨にも雪にもなり切れない、雨もどき・雪もどきが降り続いた。こんな日に一体どこに身を隠しているのだろう。前回、ご飯のお皿をひっくり返して置いた途端に姿を見せたことを思い出し、さっそくお皿を伏せて置いてみる。

そのまた次の日、木枯らしが吹き荒れた。『クロちゃん』が庭先に戻った。伏せたお皿の効果はてきめんだ。元気はないながらもご飯を催促した。おばあちゃんは、はやる気持ちを抑えて、いつものリズム、いつもの動作でご飯のお皿を置いた。その時、チリッとだれかの鈴の音がした。怯え切っている『クロちゃん』は空きっ腹をかかえて、一目散に逃げていった。『クロちゃん』は近頃、『お友だち』に気付かれることなく安心して食べられる家の裏手にご飯を置いてくれと、おばあちゃんを案内するようになっていた。おばあちゃんは、またまた手付かずのご飯をその場所に置いた。『クロちゃん』の姿は見えないままだが、ご飯は徐々に減るようになった。

人一倍甘えん坊で、ずうずうしくて、ちゃっかり者の『クロちゃん』。その『クロちゃん』が、傷付き、痛み、怯え、人だったなら、いや、飼い猫だったなら、助けを求め、そばにいてくれとせがむ、そんな時に、一人身を隠し、一人痛みを耐え、一人傷を癒している。こんな時にこそ身を預ければいいのに、こんな時にこそ心を投げ出せばいいのに、その身と心を受け止めるためにわたしはここにいるのに。野生の性は、人には辛すぎる。野生の前に、何もすることのできない無力が痛い。

姿を見せぬまま、ご飯だけが減る日が何日か続き、やっと庭先にやってきて柄にもない可愛い声で泣いた『クロちゃん』の顔の傷は、すっかり癒えていた。『クロちゃん』は差し出しされたおばあちゃんの腕の中にすっぽり収まって、しばらく降りしきる雨の音を聞いていた。